月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「灯台活用女子がやって来た! ②潮流腕木式信号機」です。
高知市内から寒風山トンネルを抜けて、約2時間で今治入りした久原美桜さんは、小雨混じりの中を現地調査しました。
最初は、波穏やかな白砂青松の唐子浜にて、「唐子浜の赤灯台」(旧コノ瀬灯標)と「唐子浜 海の子の家」(旧大浜灯台官舎)を踏査。久原さんは太平洋を見て育ちましたが、瀬戸内海の波穏やかな浜辺と多島美が大好きだそうです。沖に島があると落ち着くとか。
それを聞いて、筆者は小学4年生の時、初めて憧れだった太平洋を見るため、愛護班で桂浜に降り立ったことを想い出しました。砂が少し黒く、波も高くて、沖に島がないことをとても退屈に感じました。それは中学3年生の時に、サッカー部の同級生たちと2度目の訪問を果たした時も同様でした。自身が毎日眺めていた来島海峡のように、船が頻繁に往来する光景が見られないと満足できないのです。
余談となりますが、昭和53(1978)年に来島海峡からコノ瀬灯標がなくなると、これに代わる海峡のシンボルとして中渡島(なかとしま)潮流信号所の腕木式信号機が注目を浴びるようになります。
[ありし日の中渡島潮流信号所(灯台パンフ)]
[腕木式信号機のなくなった中渡島灯台]
筆者が中学2年生の時、今治地方観光協会から今治海上保安部管内の航路標識を網羅したパンフレットが、市内の小・中学校の児童・生徒全員にプレゼントされました。その表紙の写真が、中渡島の潮流腕木式信号機でした。
[中渡島の腕木式信号機と八幡渦(灯台パンフ)]
それは昭和62(1987)年の出来事ですが、そのパンフレットを筆者は今も大切に保管しています。これには捨てられない理由があって、筆者が通う中学校では、2年生のクラス委員長がお礼状を書くことになり、筆者はその一人でした。宛名は、聞いたこともない〝赤穂義夫氏〟という名前で、少しクダケタ礼状文を書いたところ、学年主任がこれを検閲し、筆者だけが呼び出されてコッピドク叱られました。少年心にも、先生方がとても気を遣う大物だろうと推察。そして書き直して提出したことで、忘れられない想い出となっているのです。
そのパンフレットに掲載されているのは、初代の潮流腕木式信号機でした。
[糸山の潮流腕木式信号機(初代)]
これが2代目に交換されて撤去される際、今治市は大浜地区の砂場スポーツ広場での移築保存を受け入れています。わが国で潮流腕木式信号機が初めて採用されたのは明治42(1909)年のことで、関門海峡や三原水道などにもありました。中渡島灯台は明治33(1900)年4月20日の初点灯ですが、潮流腕木式信号機が運用されている期間は中渡島潮流信号所と呼ばれました。結局、国内で最後まで運用されていたのが来島海峡の中渡島潮流信号所でした。2代目の信号機は平成2(1990)年3月から同24(2012)年3月まで稼働し、信号所廃止後に海上保安庁から今治市経由で今治ライオンズクラブが譲り受けて修復。賑わい創出をはかる今治港に設置されました。初代信号機についても、同クラブによって平成22(2010)年に砂場スポーツ広場から糸山公園の「サンライズ糸山」へ移設されているのです。
[今治港の潮流腕木式信号機(2代目)]
腕木式信号機といえば、国鉄時代の鉄道駅などで見かけることもありましたが、潮流の影響を受ける主要航路にもありました。希少な航路標識が残された背景に、唐子浜の赤灯台の存在が少なからず影響を与えたことでしょう。ちなみに、来島海峡においては、腕木式信号機の黒四角が上にある時は南流で、赤丸が上にある時は北流を意味し、その傾斜角度で転流時期の状況も示されました。同海峡では、今日も潮流の向きで航路(中水道・西水道)が6時間おきに反転する変則航法を採用しており、〝順中逆西〟(じゅんちゅうぎゃくせい)という業界用語が存在します。海上では原則右側通航の国際ルールがある中、同所だけ左側通行の時間帯が1日2回あるのです。海峡航路に差しかかった際、順潮ならば中水道(来島海峡第2大橋下)を、逆潮ならば西水道(来島海峡第3大橋下)を通航するという決まりです。腕木式信号機廃止後も、来島海峡海上交通センターなどの潮流信号所が、電光表示の「N」(北流)・「S」(南流)などで航海者へ潮流情報を伝えています。
世界でここだけの珍しい航法があるのなら、それを物語る海上交通遺産として、潮流腕木式信号機を保存する意義は大きいと思います。移設にかかわった今治ライオンズクラブは、世界的な社会奉仕団体の「ライオンズクラブ国際協会」に所属するクラブで、地域社会の発展や人道支援などを目的としたボランティア活動を行う団体です。唐子浜の赤灯台同様に、民間の活力で航路標識が守られたことになります。
【③へつづく】