月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「郡中線をゆく① 〜郊外電車の車窓から〜」です。
愛媛県でハブ駅といえば、伊予鉄道の松山市駅がそうでしょう。愛媛には、県庁所在地の松山市にしか百貨店がなく、同駅はその一つ・いよてつ髙島屋内にあります。同駅を起点とし、郊外電車は郡中線・高浜線・横河原線に分かれ、郡中線のゆく先には松前港と伊予港、高浜線のゆく先には三津浜港・高浜港・松山観光港という港があります。また同駅は伊予鉄道の路面電車停留所やバスターミナルにもなっていて、高縄半島先端の港町(波方)で育った筆者の目には、少年時代は都会を象徴する場所でした。今治市街地とは比べものにはならない繁華街だったように思います。
[伊予鉄松山市駅]
令和7(2025)年1月1日、松山市山越の妻の実家でお節料理を食べた筆者は、木屋町駅から路面電車に揺られて松山市駅を目指し、そこから人生初の郡中線に乗車しました。
JR予讃線と比較して、便数が1時間に3本もあるのは驚きでした。11.3㎞の営業区間に停車駅は12あって、30分弱で終点の群中港駅に到着します(市駅〜土橋〜土居田〜余戸〜鎌田〜岡田〜古泉〜松前〜地蔵町〜新川〜郡中〜郡中港)。自家用車で伊予港や郡中の町並みを訪ねることも考えましたが、今回はあえて郊外電車を選びました。筆者は幼いころから鉄道が大好きなのです。いつもは国道56号を走る際に、郡中線と高浜線の電車信号で停車を余儀なくされていましたが、今回は〝そこどけそこどけ電車が通る〟で、3両編成の車窓から見える眺めはとても新鮮でした。
[松前駅舎(車窓から)]
目的地は郡中界隈ですが、初乗車の所感から述べたいと思います。途中、土橋駅〜土居田駅の区間でJR予讃線の鉄橋(緑色)の下をくぐり、一級河川・重信川に架かる橋梁(水色)を渡ります。重信川周辺からは石鎚連峰が遠望でき、肉眼でもはっきりと積雪を確認することができました。松前町に入ると、古泉(こいずみ)駅で多くの乗降者がありました。これは、同駅がショッピングモール「エミフルMASAKI」の最寄り駅のためで、国道56号だけを車で走っていればそのことには気づかなかったことでしょう。そんな中、通過駅で筆者が被写体に選んだのは、古泉駅の前後にある岡田駅と松前駅です。
[岡田駅舎]
[松前駅舎]
理由は、駅舎そのものが近代化遺産(近代につくられた交通遺産)であるためです。岡田駅舎は明治43(1910)年7月18日に竣工したことが分かっていますが、松前駅舎については不明です。開業時にさかのぼれば明治29(1896)年7月4日竣工となりますが、果たしてどうでしょう。他の伊予鉄駅舎では、高浜線の終点・高浜駅が明治38(1905)年1月10日の竣工です。
ここで少し郡中線の歴史を振り返ることにします。そもそも郡中線は、最初から伊予鉄道株式会社(明治20年設立)が開業した路線ではないのです。宮内治三郎・藤谷豊城ら郡中の有力者が出資することで明治27(1894)年3月に設立した南予鉄道株式会社が、同29(1896)年7月4日に藤原〜郡中の区間で開業させたものです。社名の通り、松山から南予・八幡浜までの延伸を計画していましたが、資金難に陥って明治33(1900)年5月1日から伊予鉄に吸収合併されることになり、郡中線となるのです。藤原駅は外側駅に統合され、明治35(1902)年6月1日に松山駅に改称されますが、昭和2(1927)年の国鉄松山駅の開業に際して、名称を譲る形で今日の松山市駅に改称されました。愛媛県は私鉄の歴史が古く、それぞれが合併を繰り返す中、後から国鉄の路線が敷設されるため由来の説明が難しくなってしまいます。伊予鉄は南予鉄道だけでなく、道後鉄道や松山電気軌道などの私鉄も吸収合併しているのです。
[1908年頃の郡中線(新川〜郡中)絵葉書より]
筆者は、往路を終点の郡中港駅では降りず、一つ手前の群中駅で下車しました。お目当ては伊予市湊町の湊神社を訪ねるためです。そもそも南予鉄道開業時は郡中駅が終点で、郡中港駅はありませんでした。同駅は、昭和5(1930)年に国鉄讃予線(現、JR予讃線)が松山駅から南郡中駅(現、伊予市駅)まで延伸されることに対抗して新設された駅となります。郡中駅から郡中港駅までの区間は600mほどの距離で、この郡中港駅と南郡中駅は国道378号をはさんで向かい合っています。郡中港=伊予港もまた目と鼻の先の距離にあるのです。なお、南郡中駅は、昭和30(1955)年1月1日に昭和の大合併で郡中町が伊予市になると、2年後の同32年2月27日に駅名を「伊予市駅」に改称しています。
[郡中港駅]
湊神社を訪ねた理由については、②で紹介したいと思います。
【つづく】