レポート
2023.12.19

伯方塩業創業50年祭へゆく➀

月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。

今回は、「伯方塩業創業50年祭へゆく」①です。

 

11月4日(土曜)、今治市大三島で伯方塩業株式会社の創業50周年祭が開催され、多くの市民・観光客が同社の大三島工場に詰めかけました。

伯方塩業50周年祭(もちまき)

[伯方塩業50周年祭(もちまき)]

伯方塩業といえば、日本を代表する愛媛の製塩メーカーで、テレビCM「はかたのしお」のサウンドロゴでもお馴染みです。

「はかたのしお♪」を唄う浦田さん

[「はかたのしお♪」を唄う浦田さん]

製造工場は、この大三島以外に発祥の地の今治市伯方島にもあります。当日は、昭和62(1987)年にこのサウンドロゴを作曲した浦田博信さんをゲストに迎え、誕生秘話を石丸一三社長らと懐かしむトークショーもありました。また、同社の塩が大相撲東京場所・名古屋場所の清め塩に採用されていることもあり、仮設の土俵で塩まき体験を楽しむこともできました。

清め塩をまく体験

[清め塩をまく体験]

筆者は、伯方塩業と同じ昭和48(1973)年に誕生したことや、家業がかつて専売公社の塩を輸送する海運会社だったこともあり、同社の半世紀の歴史と自分史をリンクさせて考えることがあります。

 

愛媛県では、平成13・14(2001・02)年度に近代化遺産等調査事業を実施し、橋梁・堰堤などの土木遺産、県庁舎や道後温泉本館などの公共建築、別子住友鉱山関連の産業遺産などに光が当たりました。近代化遺産とは、幕末から昭和20(1945)年までにつくられた建造物・構造物をいい、中には国指定重要文化財や国登録有形文化財の対象となるものもあります。調査では、愛媛の特徴的な近代化遺産として、製塩業に関係する旧専売庁舎や塩田遺構が多く残されていることが分かりました。そのため、平成15(2003)年度の近代化遺産等活用モデル事業では、製塩業に的をしぼった建造物・土木遺産・塩田用具・資料の調査が行われたのです。ちょうど同じ時期、新居浜市では多喜浜地区の住民を中心とした「多喜浜塩田資料館建設委員会」が発足し、県内でマイナーな塩田史が熱く盛り上がるきっかけにもなりました。

平成15年に見つかった多喜浜塩田の古写真(小野家所蔵)

[平成15年に見つかった多喜浜塩田の古写真(小野家所蔵)]

筆者はその調査事業のメンバーとして、とりわけ昭和30~40年代まで塩田が残っていた東予地区を中心に約半年間かけて現地を駆け巡りました。塩田用具の現存数・所在地の確認や明治以降の新出資料の発掘に力を注いだのを覚えております(「愛媛県製塩業遺産調査レポート」『日本塩業の研究』第30集〈日本塩業研究会、2007〉を参照)。伯方島で見つかった昭和10(1935)年の塩田争議の浜子の連判状や多喜浜最大の浜旦那だった小野((榎之本))家で見つかった明治天皇・昭憲皇后を模した雛飾りは話題となりました。その調査事業で検討委員に就任されたのが日本の塩業史研究第一人者の渡辺則文先生(広島大学名誉教授、今治市出身)と伯方塩業の丸本執正社長でした(ともに故人)。それをご縁に、筆者と丸本社長(のち会長)との親交が始まり、自身の結婚披露宴でご挨拶をいただいたり、他県のライバル関係にある塩メーカーの催しを一緒に探訪したりしました。受けた薫陶は今でも忘れません。

 

そもそも商標の〝伯方の塩〟は、伯方島でつくっている塩という意味ではなく、〝伯方島の塩田を残したい〟という、50年余り前の愛媛発の消費者運動が背景にあります。少しその歴史を紐解くと、明治38(1905)年に施行された塩専売法まで話はさかのぼることになります。前年勃発の日露戦争(1904~05)をきっかけに、わが国の製塩業は国の専売制と

なり、生産・流通・販売は大蔵省専売局(のち専売公社)の管轄するところとなりました。それによって、それまで生産過剰で塩価の下落を招きがちだった国内塩業の保護を図ろうと、明治43・44(1910・11)年に第1回目の塩田整理が実施され、生産効率が悪く、小規模な塩田が漸次廃止されていったのです。この結果、瀬戸内海沿岸に全国の塩田面積の9割弱が集中することになります。太平洋沿岸や日本海沿岸の塩田の多くは廃止となり、愛媛でも中予・南予の入浜塩田がすべて姿を消しました。この時点で、県別面積の上位は香川県の1,129町歩を首位に、兵庫(942町歩)・山口(935町歩)・広島(581町歩)・岡山(477町歩)・徳島(475町歩)・愛媛(325町歩)の順につづきました【1町歩は約1ha】。都道府県面積で最下位の香川県が、塩田面積で全国1位というのも珍しい現象で、香川県は明治以降に塩田開発が盛んに行われたのです。また、昭和4・5(1929・30)年にも、台湾・中国関東州など植民地からの輸入が増えたとして2回目の塩田整理が実施され、瀬戸内海の塩田面積は9割を超えることになりました。

 

2回の塩田整理を好機ととらえ、筆者の曽祖父ら越智郡波方村(現、今治市波方町)や伯方島の人々は、帆船を仕立てて山口県の宇部や北九州の門司・若松の石炭積出港へ向かい、塩田(鹹水)の煎熬(せんごう)燃料の石炭を積載し、赤穂・多喜浜・坂出・撫養(むや)などの塩田産地へ廻漕しました(撫養は鳴門のこと)。

塩田用石炭を運んだ100総㌧、機帆船(昭和16年撮影、筆者曾祖父の船)

[塩田用石炭を運んだ100総㌧、機帆船(昭和16年撮影、筆者曾祖父の船)]

やがて帆船の数は増えて大型化し、昭和初年からは機動力が備わって機帆船へと切り替わり、積載量も増えていきました。船主の数も漸次増えて、海運のまちの基礎が出来上がっていきます。明治45(1912)年春には、波方の船主有志40名が、母校波方港の入出港の安全のため、すぐ沖の暗礁に私設灯台(灯標)を建設する計画が持ち上がりました(海南新聞記事、同年4月24日付)。

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[波方船主寄進のレンガ造灯明台(2017年撮影、現在は夜間点灯)]

しかし、暗礁への設置はかなわなかったようで、地域の氏神である玉生(たもう)八幡神社そばの砂浜へそれを設置し、境内社の金刀比羅宮(航海安全の神)の献灯として寄進されることになりました。大正2(1913)年築造の境内の玉垣に船名が多く刻まれることから、同年の建立と考えられます。この煉瓦造の灯明台は、実際に海図にも記されていたようで、昭和初年まで航路標識として使われていたことが分かっています。塩田ゆかりの近代交通遺産としてとらえることができますが、その由来を記した説明看板はなく、とても残念です。

昭和戦後は〝塩業整備〟の名のもとで、昭和34・35(1959・60)年と昭和46(1971)年の2度にわたって塩田の整理が実施されました。この背景には製塩技術の進歩があります。昭和30年代には枝条架流下式塩田が普及し、昭和40年代には電気分解の原理を用いたイオン交換膜法の設備を導入する組合や企業が現れるなどして、昭和46(1971)年にいったんわが国から塩田は消滅することになったのです。

 

枝条架流下式の波止浜塩田(昭和29年、近藤福太郎氏撮影)

[枝条架流下式の波止浜塩田(昭和29年、近藤福太郎氏撮影)]

愛媛県では、広大な規模を誇る波止浜と多喜浜が、昭和30年代の第3次塩業整備で廃止となります。藩政時代から愛媛の製塩業界をリードしてきた波止浜の塩田終焉は、業界に大きな衝撃を与えたようです。そして、最後まで立体濃縮装置の枝条架を用いた流下式塩田で操業を行っていたのが、以下の越智郡島しょ部の塩田でした(現在の今治市および上島町)。伯方島の北浦浜・古江浜・瀬戸浜、大三島の井口浜(盛口塩田)・宗方浜、岩城島の掛ノ浦浜・新浜、生名島の恵生(えなま)浜・深浦浜などがそうです。伯方塩業組合では、昭和46(1971)年12月に最後の煎熬作業を行って釜の火が消え、藩政時代からつづく伯方島の塩田史に幕を下ろすことになります。しかし、しまなみソルトヒストリーはここで終わりを告げません。伯方島の塩田を残して欲しいとする消費者運動が、松山市の保健婦であった菅本フジ子女史を中心に巻き起こり、その中に自称〝青二才の農家の倅(せがれ)〟丸本執正氏の姿もありました。

 

【②へつづく】

イベント詳細

イベント名伯方塩業創業50年祭へゆく➀
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