レポート
2025.05.08

【灯台博士 大成さんによるコラム】①海中鳥居は珍しいのか? 〜波止浜の龍神社〜

月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。

今回は、「①海中鳥居は珍しいのか? 〜波止浜の龍神社〜」です。

 

高縄半島北端の北予には、海中鳥居をよく見かけます。1つだけなら、それを見て珍しいと評することもできますが、さすがに4基も現存すると、そうとも言えません。波止浜(はしはま)の龍神社・小浦(こうら)の厳島神社・波方町宮崎の御崎神社・大西町九王(くおう)の龍神社らがそうです。

同じ四国の香川県三豊市では、高屋神社(本宮)の〝天空の鳥居〟が観光客に話題のようですので、わが愛媛県北予の海中鳥居たちも、この場をお借りして紹介させていただけたらと思います。

[海中鳥居(奥に二の鳥居)]

筆者が住む今治市波止浜には、龍神社の「一の鳥居」が地堀川河口に所在しています。花崗岩(かこうがん)製で、正徳5(1715)年5月に建立されたことが銘に刻まれています。波止浜といえば、天和3(1683)年に誕生した伊予国最初の本格的な入浜塩田ですが、その塩田の繁栄と港町の繁栄を願って近江国勢田(現、滋賀県大津市)の八大龍王を勧請したのがこの龍神社なのです。境内の寄進石造物を見渡すと、最古の在銘品となるのがこの鳥居で、建立された当時、波止浜には36軒53町歩余りの入浜塩田がありました(幕末期には42軒60町歩余りまで増築/1町歩は約1ha)。干潮時に寄進者の銘を観察したところ、風化や汚れで判読しづらい中、波止浜庄屋の「平蔵」と波止町の町年寄の「古川七三郎」らの名前を確認することができました。

当初、この鳥居は現在の「二の鳥居」(昭和15年建立)の付近にありました。そこが海面であったことは、拝殿に掲げられた慶応3(1867)年奉納の同社の祭礼絵馬(市指定文化財)から分かります。大正末期の古写真を見ると、絵馬に描かれた鳥居が、まだ絵馬と同じ位置に建っていたことが分かります。

[大正末期の龍神社(古写真より)]

[幕末期の龍神社祭礼絵馬]

この鳥居が現在地へ移設されたのは、昭和8〜12(1933〜37)年頃に埋め立てがあったことから、それ以降の時期と考えられます。地元の言い伝えでは、参拝者がこの鳥居をくぐると、潮水の清めで霊験の加護を受けられたとのこと。伝説もあって、毎月1日・15日には大きなサメが龍神社の使いとして現れ、鳥居の下をくぐって参拝したようで、これらの日に漁をすると網が破れ、不漁になったとのこと。当社の神の使わしめは龍に似たウツボやハモではなく、サメなんですね(笑)。

そもそも海中鳥居で有名な場所は、世界遺産の安芸宮島・厳島神社(広島県廿日市市)ですね。

かつて今治市宮窪町のまちおこしグループ「水軍ふるさと会」が、村上海賊が活躍したとされる厳島合戦(1555年)を再現しようと、平成9(1997)年に「村上水軍〝厳島合戦への道〟体験ツアー」を企画。復元した櫓漕ぎの和船「小早船」(こばやぶね)で大三島宮浦港から厳島神社まで、一部区間を漁船に曳航されながら約90㎞の航程を漕いだことがあります。ゴールの際、2艘の小早船は大鳥居をくぐることを許され、漕ぎ手たちは勇者の気分にひたったようです(掲載写真/「館報みやくぼ」平成9年9月号より)。筆者は、ここを40歳の時に中学校の同級生たちと厄払いで参詣したことがあり、ちょうど干潮時だったことで、大鳥居前で記念写真を撮ることができました。干満差を知る瀬戸内海地域の筆者らからすると、「潮が干いててラッキー!」という気持ちになるのですが、そうでない人たちからすると、大鳥居は海中にそびえ立つものでないと満足できないのかも知れませんね。 

 [干潮時の海中鳥居]

[満潮時の海中鳥居]

 

【②へつづく】

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