月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「③海中鳥居は珍しいのか? 〜大西町九王の龍神社〜」です。
九王(くおう)といえば、今治市ご当地検定「いまばり博士」(今治商工会議所)によく出題される難読地名です。九王地区の推しと言えば、筆者的には「船上(せんじょう)の継ぎ獅子」と「鴨池海岸の夕陽」でしょうか。今治市陸地部の春祭りは〝獅子舞芸能〟が盛んで、九王獅子連中など24の団体が愛媛県無形民俗文化財の指定を受けています。それらの芸能は、神輿が宮出しする直前、観衆を魅了する集客の役割を担っています。その演目の一つ〝継ぎ獅子〟は、屈強な男性の肩の上に、二段・三段と人が積みあがる〝立ち芸〟のことをいいます。本来なら二人で演じるところを、今治地方では各地の獅子連が競い合うようにして高くなっていったと考えられます。
[船上の継ぎ獅子(日浅敬治氏撮影)]
[九王海岸の入口看板]
しかし忘れてはいけません。大切なのはどこの神社の祭礼で奉納される芸能かということ。主役はあくまでお神輿です。船上の継ぎ獅子は、九王地区の氏神様である龍神社の例大祭で5月第3日曜に催されます(2025年は5月17日開催)。
龍神社から宮出しをした神輿が船で対岸へ渡御(とぎょ)する間、海上を船でお供しながら船上で立ち芸を披露するのです。氏子や観衆は、海岸から固唾を吞んで見守り、成功すれば賞賛の拍手を送ります。神輿が陸に上がった後は、御旅所まで道中芸を披露しながら観衆を喜ばせるようです。
[海中鳥居と祭礼(日浅敬治氏撮影)]
[祭礼当日の九王龍神社(日浅敬治氏撮影)]
現在は海岸道路が整備され、陸から境内までは軽自動車でアクセス可能です。従前は、神輿の渡御には船が欠かせなかったことで、こうした芸能に昇華していったと考えられます。その海中鳥居ですが、干潮になれば岩礁とともに全体像を現します。
[九王龍神社の一の鳥居(干潮時)]
海中にある時は、海岸道路から「明治三年」の刻銘を目視できましたが、干潮時に訪ねると造立年が「明治三十三年」(1900)と分かりました。〝十三〟が海面下にあったようです(笑)。また、途中で改修があったのか、当初の笠木が岩礁の底部に遺跡のように横たわっていました。
ところで、4月号のコラムでも紹介しましたが、筆者はこの九王の海岸で、小学生の時にキシャゴを潮干狩りしているのです。
[幻の九王駅跡(左は地蔵堂)]
今では静かな白砂のビーチですが、夏は海水浴を楽しむことができます。ただ、駐車場とトイレの設備が不十分なことで、大西町域の住民は鴨池海岸公園や星浦海浜公園で海水浴を楽しみます。もう半世紀以上前の昔話となりますが、ここが大勢の海水浴客で賑わったことがありました。あまりに賑わったため、昭和36〜41(1961〜66)年の7・8月の時季に限って、国鉄予讃線の波方―大西間に臨時駅「九王駅」が開設されていたのです。
ちょうど鉄道車両が蒸気機関車から気動車(ディーゼル)に変わろうとする過渡期で、昭和35(1960)年に開業した波方駅のように、気動車対応の駅新設が予讃線に相次ぎました。昭和39(1964)年8月の『国鉄時刻表』によると、九王駅は気動車に限って1日12便停車していたようで、駅は海岸から近い地蔵堂前にありました。どのような形態のホームだったのか、地元の高齢者に訊いても分からずじまいです。今後、古写真の発見や有力情報の提供に期待したいと思います。ちなみに、この駅が廃止された背景には、県内の梅津寺パーク(松山市)と唐子浜パーク(今治市)の台頭があげられ、九王の海岸が廃れていく主要因ともなりました。しかし令和の今、その両パークも閉鎖されて現存せず、まさに時代が特急列車のように駆け抜けていったかのようです。
【つづく】