月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「キシャゴってなぁに?」です。
私事で恐縮ですが、今年1月、今治市合併20周年記念表彰で教育文化スポーツ功労賞を受賞しました。隣席には、今治市拝志出身の絵本&紙芝居作家の長野ヒデ子さんがいて、ヒデ子さんには昨年秋の今治明徳短期大学の公開講座でご講演いただいたこともあり、式典では会話が弾みました。ヒデ子さん(昭和16年生)は、幼少期の記憶がとても鮮明で、感性が童心そのものです。幼い頃に自宅近くの織田が浜で遊んだことを、昨日のことのように語り、砂浜の波打ち際ではキシャゴという巻貝を見つけてはよく遊んだそうです。そのことはご自身初のエッセイ集『ふしぎとうれしい』(石風社/2000年)にも記されていて、代表作〝せとうちたいこさん〟シリーズ(童心社)は、瀬戸内海が遊び場だったヒデ子さんだから生まれた作品なのです。しかし、織田が浜の半分近くは開発によって埋め立てられ、幼少期の光景は大きく変わりました。「もうキシャゴを見かけなくなったけど、どうにかして手に入らないでしょうか?」と、筆者は相談を持ちかけられました。どうもキシャゴを絵本の題材に取り上げたいようなのです。
[織田が浜(漂着ゴミ拾い)]
そもそもキシャゴとは何か? どんな種類の貝なのか、名前を聞いただけではイメージが沸いてきませんでした。キシャゴは、地域によって呼び名が異なり、キサゴという名称が一般的なようです。ご年輩の方々には、おはじきにして遊んだ貝といえばイメージがつきやすいと思います。第2次ベビーブーム生まれの筆者(昭和48年生)が幼い頃、おはじきはガラス製に変わっていましたので、それによく似た平べったい形といえば、イメージがつきやすくなります。また、「きさ」の語源が木目を意味するようで、木目状の模様の平べったい巻貝といえば、よりイメージが確かなものとなります。
[キシャゴ]
キシャゴと聞いて、筆者がまず思い浮かべたのは、潮が引くと、テトラポットや防潮堤のコンクリート壁面に姿を見せる巻貝のイシダタミでした。その名の通り、殻が石畳のモザイク状の模様をしています。幼い頃は、春の大潮などで海浜の石をはぐれば、子供でも簡単に採取できた貝です。我が家では〝磯もの〟と称していました。バケツ一杯採取して自宅へ持ち帰れば、ボイルして簡単に爪楊枝でつついて食べることができました。ただ、生きているイシダタミを採取するのは忍びないので、浜堤に打ち上げられた貝殻を採取することにしました。
[イシダタミ]
現在、私は今治市波止浜(はしはま)に住んでいるため、近隣の浜辺を何か所か踏査することにしましたが、イシダタミの貝殻は比較的よく見かけました。そこで、風化して穴が開いているものはスルーし、できるだけ状態のよい鮮やかな模様のものを採取することにしました。波止浜湾は黒い干潟のため、貝殻まで黒ずんでしまい、採取は早々に断念。来島海峡に面した糸山周辺の砂場(すなば)・小浦(こうら)の海岸、高縄半島先端の波方町の大角(おおすみ)海岸・西浦海岸・馬刀潟(まてがた)海岸・宮崎海岸、そして大西町の九王(くおう)海岸を3月末〜4月初旬に駆け足で巡りました。
[護岸に付着したイシダタミ]
岩礁に付着した海藻を採取する人たちをよく見かけましたが、貝殻探索の筆者はちょっと怪しい存在で、海藻採取の方たちの目には、私が漁協か海上保安庁の職員に映ったことでしょう(笑)。
踏査結果の成果をいいますと、キシャゴを採取できたのは西浦海岸だけでした。
[西浦海岸]
現在の西浦海岸は、私が大学生の頃、高潮対策で一文字波止を海岸線に沿って設置したことで、砂浜の形状は大きく変わりました。そこは、筆者が中学3年生の時、海水浴や犬の散歩を楽しんだ想い出の場所だけに、美観が損なわれたことは残念でなりません。変わる以前は、斎灘にダルマ夕陽が見られるビューポイントとして知られていました。ここは、太平洋戦争末期から戦後直後にかけて、自給製塩の揚浜塩田があったことでも知られる延長距離の長い砂浜海岸でした。
[西浦海岸の揚浜塩田(近藤福太郎氏撮影)]
一方、馬刀潟海岸は、イシダタミの墓場と思えるほど、大量の貝殻が打ちあがっていました。馬刀潟海岸を訪ねた理由は、そもそも地名の由来が〝マテガイ〟がよく採れるという説にもとづくためです。そういう意味では、今治市大島の吉海町には、馬刀潟に匹敵する難読地名の下田水(しただみ)があって、こちらはシタダミという貝がたくさん採れるという語源のようです。それはイシダタミを指すのでしょうか。
[馬刀潟海岸の貝殻]
最も期待した九王海岸は、砂浜そのものが痩せた印象を受け、キシャゴは1つも見当たりませんでした。筆者は小学生の時、ここで1度だけ潮干狩りを行った記憶があり、その獲物がキシャゴだったように思います。砂をかけ分けると簡単に見つかり、きれいな貝殻だったことをよく覚えているのです。
[九王海岸]
その九王海岸ですが、近年は〝船上の継ぎ獅子〟が奉納される場所として有名ですが、昭和40年代初めまでは当地方を代表する海水浴場で知られました。夏季の海水浴シーズンだけ国鉄の臨時駅「九王駅」が数年間(昭和36〜41年)存在したのです。しかし、これと入れ替わるように、松山市の梅津寺パークと今治市の唐子浜パークが台頭。それら海水浴場併設の遊園地に客を奪われて、幻だったかのように九王駅は姿を消しました。しかし、時代の移り変わりは速いもので、令和の今日にいたっては、両パークも失われているのです。近年、大西町の九王といえば、鴨池海岸公園がキャンパーや観光客を魅了する行楽地となっています。筆者も学外授業で、学生たちとよく訪れる馴染みの場所となっています。
[鴨池海岸公園]
結局、キシャゴは5個の貝殻しか見つけることができませんでした。過去に台風や時化で浜堤に打ちあがって、そのまま死に絶えたものでしょうか。2個は小さく、1個は模様が剥離していました。しかし、踏査を通じて、改めて海浜の景観や生態系の大切さに気づきました。西浦海岸は、ゴミの漂着に目をそむけたくなりました。これは、前期の授業で学生たちを引率して清掃活動したいと思います。最後に付け加えることとして、私の故郷・波方町出身者には、かつて貝類の標本蒐集で大きな足跡を残した村上次郎翁がいました。翁は昭和25(1950)年に昭和天皇が四国巡幸をされた際、県内の貝類研究の第一人者としてご説明を担当しています。また、令和4(2022)年2〜4月に愛媛県総合科学博物館で貝をテーマにした企画展が開催された際は、翁蒐集の標本が展示されて、貝に捧げた人生が脚光を浴びることになりました。
ヒデ子さんのひと言から始まったキシャゴ探しの冒険ですが、筆者にとっては故郷の海浜の価値を再考するよい機会ともなりました。