月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、【宇和島へゆく② 〜遊子水荷浦の段畑〜】です。
平成6(1994)年春、宇和島市在住の写真家・原田政章氏が写真集『由良半島』を出版しました。全国紙でそのことを知った筆者は、当時は仙台市内の大学に通う3年生でしたが、原田氏に直接電話して同著を購入しました。原田氏はその後も『宇和海』(1997)・『段々畑』(2000)という写真集を出版し、半農半漁で生きた宇和海の人々の営みをリアルに浮かび上がらせました。南予リアス海岸特有の〝耕して天にいたる段々畑〟の光景は、筆者の故郷・今治地方の瀬戸内海沿岸では見ることのできない別次元の世界でした。もちろん、そうした光景は昭和戦後の高度経済成長期以前のことですが、そんなピラミッドのような世界が南予にあったことを知り、いつか由良半島へ行ってみたいと思うようになりました。
そのチャンスは8年後に訪れます。〝念ずれば花開く〟です。筆者は平成13〜14(2001〜02)年度に愛媛県の近代化遺産調査にかかわり、このとき初めて由良半島を訪ねました。しかし、もうそこには写真集のような世界はありませんでした。その社会の変容については、原田氏(故人)の著作に詳しいのでここでは省きますが、宇和島市中心部から宇和海へ突き出た三浦半島・遊子水荷浦(ゆすみずがうら)にだけ、写真集の世界が残されていたのです。希少な景観と評価され、平成16(2004)年には国の重要文化的景観にも選定されました。

[遊子水荷浦]
筆者は〝遊子〟という難読地名は以前から知っていて、遊子漁協の関係者が今治市の宮窪漁協と交流があって、水軍レース大会に毎年チームを派遣してくれていたのです。〝遊子漁協友の会〟は、水軍レース関係者にはよく知られた存在で、出場を果たす度に選手の平均年齢が上昇し、おじいちゃん漁師の老練な櫓さばきが会場を沸かせてくれました。宮窪同様に、県内では漁業従事者の多い地区として知られてきました。
半島に大きな川はなく、平地も少ないことで稲作には向きません。人口が増えれば、それを養うために集落背後の斜面を開墾して、耕作地を増やしていきました。気づけば、麓の海岸から丘陵尾根まで開墾が進み、石を積み上げて階段状の段畑が形成されていったのです。

[遊子水ヶ浦の段畑]
サツマイモや麦などを植えてこれを食糧とし、蚕のエサとなる桑を植えたりした時期もあったようです。ただ、一段ごとが急斜面の狭い耕地のため、牛や農業機械が入らず、人力での運搬作業は重労働でありました。写真集『由良半島』で象徴的だったのは、老年男性の肩にできた〝荷だこ〟で、労苦を感じさせるものでした。

[段畑で働く老夫の荷だこ]
それでも、原田氏と被写体の住民は顔なじみだったのでしょう。労苦を感じさせない屈託のない明るい表情が、たくましい半農半漁の暮らしを物語っているかのようでした。
筆者は数年前、家族をともなって約20年ぶりに遊子水荷浦を訪ねました。週末ということで、すっかり観光客でにぎわっていました。昨年12月22日は平日の月曜日。冬至の割にはポカポカ陽気の午後でしたが、訪ねた午後2時頃にいた観光客は1組の老夫婦だけでした。とにかく静かで、トビの鳴き声と沖の養殖筏から帰ってくる漁船のエンジン音だけが耳に入ってきました。畝にかぶせた黒いブルーシートは、春ジャガイモを植えた場所のようで、実際に一人の住民男性がその作業を行っているところでした。やはり人力での作業は今でも大変で、現在はモノラックや軽トラを使える場所もあるようでした。尾根筋まで登ると、前面に広がる湾に整然と養殖筏が浮かんでいました。どんな魚介類を育てているのかは気になるところで、午前中に宇和島港住吉埠頭で見た活魚運搬船の積み荷のブリを想像しました。後で遊子漁協に問い合わせると、マダイとのことでした。私たちが口にする魚介類が、どこで育ち、どのようにして運ばれてくるのかは、もっと関心をもっていいことだと思います。南予のリアス海岸では、他にも真珠・マグロ・ハマチなどの養殖も有名ですが、耕して天に至る段々畑が広く見られた頃は、イワシ漁が盛んだったとも聞きます。

[湾内に浮かぶマダイの養殖筏]
当日の午前中、筆者は宇和島東高校で2年生14名にミニ講義をしましたが、遊子水荷浦の段々畑を話題にとりあげました。意外に、訪ねたことのある生徒が少なかったです。地域探究は現地・現場を見ることが大切です。宇和島市中心市街地からだと車で片道30分ほどの距離で、きさいや広場からバスも運行されているようです。