月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「旧島本陣三浦邸へゆく」です。
9月20日午後、越智郡上島町をフィールドワークする機会にめぐまれ、智内兄助一般財団法人のメンバーらと岩城島の「岩城郷土館」「岩城八幡神社」と佐島の古民家ゲストハウス「汐見の家」を視察しました。アクセスは、今治市街からしまなみ海道を経由して因島で降り、同島の長崎港から生名島の立石港へ上陸。あとは、ゆめしま海道でつながった上島町の島々を車で移動というものでした。上島町は広島県との県境にあって、今治市と隣接しながらも、今治市陸地部からは遠くに感じます。
[上島町岩城郷土館(筆者は右端)]
岩城郷土館は〝旧島本陣三浦邸〟とも称され、町指定文化財にもなっている歴史的建造物です。棟札によると、幕末の慶応元(1865)年9月落成のようで、当時の岩城島豪商であった三浦家(東三原屋)の屋敷内にありました。本陣の意味は、貴人の宿泊するところで、戦場にたとえるならば大将が陣取る場所をいいます。藩政時代、岩城島は生名島とともに松山藩領に属し、船で参勤交代を行う際は自領の最北端に位置しました。参勤交代の海路や領内巡視で藩主の立ち寄る機会があったようで、その場合に備えて藩は岩城島に「御茶屋」という藩主の休息・宿泊する施設を設けていました。
本陣については、他の大名や幕府役人が立ち寄った際に使用するのが通例ですが、実際にこの三浦邸本陣がどのように使われたのかはよく分かっていません。幕末動乱期につくられたということは、やはり幕府役人や戦時への備えのように感じます。時期的には、第1次長州征伐(1864年)の直後であり、外国船も瀬戸内海を往来する混迷のご時世でした。松山藩は、航路沿いでは津和地島・三津浜・興居島にも御茶屋を設けていましたが、本陣があったのは岩城島だけでした(興居島は18世紀後半に廃止)。今治藩については、岩城島に隣接する弓削島に御茶屋を設けていました。
現在、岩城郷土館は島本陣の設えを学ぶことができる貴重な海事遺産といってもいいでしょう。昭和57(1982)年4月に岩城村の郷土資料館となる前は、建物が老朽化して存続が危ぶまれていたとか。三浦家が村へ寄贈することで、朽ちた部分を修復して今日にいたっています。『岩城村誌』(昭和61年)では、その修復で価値が損なわれたという評価をしていますが、果たしてそうなのでしょうか。筆者は実に22年ぶりの訪問となりましたが、前回はここを歌人の若山牧水や吉井勇が訪ねたというエピソードばかりが印象に残っています。確かに現在のパンフレットを見ても、そのことに重きが置かれているように感じます。失意の牧水が大正2(1913)年5月に岩城島へ来島し、かねてから交流のあった三浦敏夫のもとに5日間逗留し、再起のきっかけになったというものです。そのことを知った吉井勇が、昭和11(1936)年に瀬戸内海の歌行脚で同所を訪ねて牧水を偲ぶ歌を詠んでいます。
それが今回、筆者は建物の設えや使用されている建材などに心が躍りました。それもそのはず、近年、中庭・坪庭の手入れを行う住民有志が現れ、インバウンド向けに羽織を用意するなど、滞留時間が長くなる工夫が見られたのです。
[手入れが行き届いた中庭]
庭がよみがえると屋敷は本来の輝きを取り戻し、癒される空間へと変わりました。今回は、再生に尽力する「三浦邸ふれんず」代表の山本こころさんから、手作りおはぎのもてなしを客間(藩主の部屋)で受け、同館の魅力を再発見しました。おもてなしを受けることで、客人の気持ちに浸り、設えや意匠に意識が向くようになりました。
[旧島本陣で心温まるおもてなし]
現在のパンフレットには建物の竣工年が記されておらず、造られた当時の時代背景に迫り切れていません。そこで、筆者なりに調べてみることにしました。
[旧島本陣の客間(藩主の間)]
まず、「御茶屋」と「本陣」の違いを理解しておく必要があり、比較対象となる類似の施設の把握などに努めました。三浦家は、岩城村で天保10(1839)年に没落した庄屋・白石家に代わり、同12年から庄屋となった豪商です。近くの岩城八幡神社の寄進石造物を見ると、刻まれた銘からもその交代がうかがえます。この白石家没落の理由が判然とせず、借金を返済できないことで、訴訟に陥ったことが資料に記されていました。筆者は、白石家が同島掛ノ浦の塩田開発にからみ、投資に見合う成果が得られず、経営不振に陥った可能性を想定しています。三浦家については、金融・廻船・塩田経営で財をなしたようで、廻船の活動では石見国外之浦(現、島根県浜田市)・清水家の「諸国御客船帳」に享和3(1803)年6月から天保5(1834)年5月まで8回の寄港を確認することができます。縞木綿や食塩を積み荷として廻漕していたようです。
岩城島は、松山藩領の越智郡島嶼部(関前諸島・大三島・生名島)では1島1村で大村の規模を誇りました。享保年間末の1730年代には人口1443人であったのが、約60年後の寛政11(1799)年には2142人に増加し、家数456軒・問屋12軒・漁船40艘・商船9艘というものでした(2020年の国勢調査が1942人)。島が繁栄する要因の一つが、藩の御茶屋が設けられたことはいうまでもありません。また、海上交通や商品経済の進展にともなって、藩の支援を受けながら港湾整備が漸次進められていきました。村でありながら、港に問屋街が形成されて町場の機能も有していました。そこに三浦家のような商人が台頭をみせていったのでしょう。
島では、綿花栽培と塩田経営以外に、海を生業とする出稼ぎ労働者も多かったようです。その富の集積を、旧島本陣や岩城八幡神社の寄進石造物などからうかがい知ることができます。嘉永6(1853)年の岩城八幡神社境内の玉垣には、石段登リ口の一番目立つ石柱に三浦與惣治の名が刻まれます。万延元(1860)年に建立した同社釣殿の棟札には庄屋三浦直右衛門の名が記され、島本陣はそれから数年後の建立となります。
[岩城八幡神社からの眺め]
三浦家の屋敷は、現存する旧島本陣そばの駐車場だけでなく、海に向かっても展開していました。そして屋敷から船に直接アクセスできるよう、石造の雁木(がんぎ)が付属していました。
[1966年撮影の三浦邸(雁木と護岸)]
[三浦邸跡の雁木(がんぎ)]
港内には、まだ少し雁木の名残が見られますが、崩れたりコンクリートの擁壁に覆われたりと、失われる傾向にあります。旧島本陣が引き立つためには、そうした港の設備も保存をはかる必要があり、海から得た富が集積する神社境内の景観も整備の対象になってきそうです。魅力的な海のストーリーを有する歴史文化遺産を、知恵と工夫で未来へ伝え残して欲しいと願います。これまで、岩城島はレモンや芋菓子、積善山のサクラが有名でしたが、ゆめしま海道の開通で観光振興に期待が向けられるなか、オンリーワンの歴史にも光を当てて欲しいものです。