月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「灯台活用女子がやって来た!③波止浜港の石造灯明台」です。
①②では、昭和50年代と平成時代に、民間の活力によって移築保存された今治市内の航路標識を紹介しました。実は、まだ他にあるんです!
灯台活用女子の久原美桜さんとともに、今治港・糸山公園の潮流腕木式信号機の後に目指したのは波止浜(はしはま)港です。
[波止浜港の石造灯明台]
波止浜港といえば、日本最大の海事都市・今治を象徴する造船所群の光景を観察できる場所です。
[波止浜湾の造船所群]
今治造船㈱今治工場の艤装岸壁には、全長170〜190mのバラ積み船やコンテナ船が係留され、これを間近で見られることは産業観光の魅力を備えているといえます。今でこそ、海事産業が根づく造船工場集積地の波止浜湾ですが、藩政時代は入浜塩田が広がる塩田で栄える港町でした。
[塩田で栄えた波止浜湾(1927年頃撮影)]
この港町は松山藩の管理下に置かれ、伊予船籍以外の船が多く入港して〝伊予の小長崎〟とも呼ばれました。その繁栄を偲ぶものの一つが古い町並みですが、観光桟橋「渡し場」前には嘉永2(1849)年築造の高さ約6m石造灯明台があります。地元の龍神社拝殿に飾られた幕末期奉納の祭礼絵馬にも、この灯明台は描かれています。
[幕末の波止浜港を描いた絵馬(左下に灯明台)]
[波止浜港の石造灯明台]
明治初年にブラントンらが手がけた洋式灯台が次々と出現する中、それらは和式灯台として時代遅れになっていった航路標識であります。
しかし、この石造灯明台が造られた背景はとても大切で、江戸後期になって瀬戸内海塩田で入浜塩田の面積が増えていく中、生産過剰による塩価の下落が塩田産地に不況をもたらしたのです。その打開策の一つが、塩買船(しおかいぶね)や煎熬(せんごう)燃料の薪・石炭を積んだ船が安全に入出港できる港の整備でした。灯明台は、夜間の寄港で大事な意味を持ってきますので、堅い花崗岩(かこうがん)の切石を組み合わせて頑丈に築いたことが分かります。世話役の名前も刻まれますが、庄屋や町年寄のようです。少し厄介なのは、明治35(1902)年に移築したことを示す銘文が刻まれていることです。そしてその下に、八木亀三郎と矢野嘉太郎の銘が。江戸後期と明治の元号が刻まれて、
それぞれに人物の名前が…。この謎解きは、波止浜の藩政史と近代史に通じていないと理解できません。
明治35年は、当地に波止浜船渠造船所(現、新来島波止浜どっく)という、石垣ドライドックと鉄工所を完備することになる近代洋式造船所が創業した年にあたります。
これは、地元の塩田地主らが海運ブームにも乗って、新たな地場産業を興そうと出資し、誕生した造船会社となります。これに対し波止浜村では、造船用地と市街との間にあった海を埋め立て、同所へ後に専売局の庁舎・倉庫を設置するなど、開発を計画します。このとき、前述の石造灯明台の位置を少し移動させる必要が生まれ、壊す選択肢もある中で保存することになったのでしょう。灯明台には「金毘羅大権現」の銘が刻まれることから、海上安全の願いが込められています。移築に対して費用を工面したのが八木と矢野の両名で、当時の愛媛県内で〝波止浜二明星〟とも謳われた資産家でした。そもそも彼らの父や祖父が嘉永年間の築造で世話役を務めたことから、移築の費用を担ったと考えられます。
この航路標識もまた、民間の活力で残されたことになります。
【④へつづく】