月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「灯台活用女子がやって来た!④波方港の赤煉瓦灯明台」です。
波止浜港の石造灯明台を見た後は、同所から車で5分ほどの距離にある、波方港そばの玉生(たもう)八幡神社へ久原美桜さんと向かいました。
そこは筆者の実家の氏神様でもあり、少年時代にお祭り行事で慣れしたしんだ場所です。今年の5月末の例大祭では神輿を担ぎましたが、旧友や知人との語らいに懐かしさが込み上げてきました。同神社の神域は、古くから船主や船員の多い〝海運のまち〟ということで、海上安全の願いも込めて、神輿は海を清めるため海に放り投げるのが習わしです。
[玉生八幡神社]
[玉生八幡神社の春の大祭(波方港)]
今回のお目当ては、鳥居のそばにある赤煉瓦造の灯明台で、基礎石垣を含めると高さ約6mもあります。波方港には、かつて大三島宮浦港と広島県竹原港行きのフェリー桟橋がありました。平成21(2009)年3月の航路廃止とともに赤い桟橋は撤去され、現在は広い駐車場と旧港務所(なみかた海の交流センター)がその名残をとどめています。
昭和30年代にフェリー桟橋が造成される前、その付近は白砂青松の光景(宮の下の松原)が広がっていて、神社境内と接する浜堤に赤煉瓦の灯明台は立っていました。
[赤煉瓦灯明台]
この灯明台は筆者の父(昭和17年生まれ)が幼い頃から廃墟の状態だったようです。長くこの灯明台の由来ははっきりしませんでしたが、拙稿「塩田史を灯す2つの灯明台 〜今治市波止浜港・波方港の事例から〜」『日本塩業の研究』第36集(日本塩業研究会、2020)の中で竣工年をつきとめることができました。要約すると、明治45(1912)年に波方船主40名が、すぐ沖の暗礁(年越磯)へ私設灯標の設置を計画しましたが、実際は浜堤に設置され、境内社の金刀比羅神社の献灯として寄進されたようです。
しかし昭和4(1929)年の海図には航路標識として記載され、古老の証言などからも波方港の位置を示す灯台の役割を担っていた時期があったようです。同社の玉垣には、大正2〜3(1913〜14)年にかけて、これら船主の名と船名を刻む玉垣が多いことから、灯明台はこの時期に初点灯したと考えられます。船主たちは、波方港の築港整備も同じころに進めていて、一連の動きの中で灯明台は誕生したことになります。
[境内にある船名を刻んだ玉垣(大正2年寄進)]
明治38(1905)年の塩専売制施行後、瀬戸内海に塩田面積が増えていく中で、波方船主は塩田用石炭を宇部や北九州(門司・若松)で積み、塩田産地へ運ぶことで〝海運のまち〟の基礎を築いていきました。国立海員学校(波方海上技術短期大学)が波方の地にあるのは、そうした先人の営みあってのこと。筆者の曽祖父も昭和10年代に機帆船を有し、100総㌧の石炭船を有していたことが分かっています。決して、戦国時代の村上海賊にさかのぼる話ではなく、身近なルーツを大切にする必要がありますね。
昭和戦後には、この灯明台は廃墟となり、フェリー桟橋造成工事で周囲の景色も一変し、砂浜海岸は失われました。灯明台は境内外の県道に取り残され、土台の石垣は地中に埋もれてしまいます。そうした中、平成17(2005)年に県道拡幅工事が行われることになり、解体されずに境内への移築保存がかないました。当時の古老船主らにとっては、自らの父や祖父の篤志で建てられたことを知っているだけに、保存の声が大勢を占めたのでしょう。移設工事に際して土台の石垣も見つかりましたが、こちらは当初の移設費用に見積もられてない中、工事業者の篤志で元の姿で復元することがかないました。
実は筆者もこの場に居合わせ、古老船主とともに石垣を含めた保存のお願いを要望しました。
今日、波止浜・波方それぞれの灯明台は、令和時代になってLED照明器具が火袋の中に備わり、外観を維持したまま夜間はライトアップされています。
波止浜の方は、近隣住民の篤志でそれがかない(筆者も協力)、波方の方は神社の令和記念事業の一環で整備されました。航路標識への想いが、今治では時代を超えて継承されているんですね。
高知からやって来た灯台活用女子・久原さんの目にはどう映ったのでしょう。それらを参考して、卒業論文、がんばってください!
【おわり】