月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「郡中線をゆく② 〜郡中沖にクジラ来遊!?〜」です。
伊予鉄郡中駅を午後2時40分過ぎに下車し、お目当ての湊神社まで500mほど歩いたでしょうか。道中には、古い町並みが残されて、カツ丼で有名な御食事処「濱田屋」が目に飛び込んできました。昭和8(1933)年竣工の近代和風建築です。郡中といえば、国登録有形文化財となっている宮内家住宅(ミュゼ灘屋)の印象が強く、ほかにも濱田屋のように町並みを彩る旧家が点在していることに驚きました。
[湊神社]
湊神社には、正月飾りや幕が張られていて、照明が点灯したままであることから、未明から初詣の氏子を迎えている様子がうかがえました。地元ではお戎(えびす)さんと呼ばれ、漁業関係者からの崇敬が厚いようです。境内の入口脇には「克鯨 一字一石塔」の銘が刻まれた魚霊塔のような石碑があります(克鯨/コククジラ)。
[克鯨 一字一石塔]
碑文によれば、郡中湊町の漁業組合が明治43(1910)年3月20日に建立していて、これを補足する「一石塔由来」の石碑も後年になって建立されています。それらによると、明治42年2月頃に郡中沖へ大鯨一頭が姿を現し、その場からしばらく離れなかったようです。そこで、湊町の漁師らは捕獲を試みるもうまくいかず、最終的には下関の捕鯨会社の協力で3月21日にこれを仕留めることができました。伝承では、その鯨はマッコウクジラのメスとされ、仕留めた後は牛2頭と数百人の力で戎の浜へ引き揚げたようです。
[捕獲されたクジラ(明治42年撮影)]
その当時の写真が伝えられ、額に入れて湊神社の拝殿に掲げられています。湊海岸に引き揚げた初日は雨にもかかわらず、数千人の見物客が押し寄せたようです。これを商機とみるや、クジラの周囲を筵(むしろ)で囲んで、入場料をとって3日間も賑わったとか。写真を見ると、確かにクジラの背後に筵を確認できます。その後、クジラは解体されて一部は食肉とし、大部分は浜に埋めて供養しました。賑わいも束の間で、それからしばらく沖合では不漁がつづき、漁師たちはこれをクジラの祟りと恐れ、1年後の3月20日に前述の石塔を建て供養を行ったようです。筆者は、この石塔(石碑)と写真が見たかったのです。その一件以来、郡中沖でクジラを見かけることはなくなりますが、五色姫海浜公園で筆者はクジラを見つけてしまいました。もちろん、ホンモノではありません(笑)。ベンチに付属する日除けの屋根が、どう見てもクジラの尾ビレの形状に見えてしまうのです。
[五色姫海浜公園のベンチ]
愛媛県では、この他にも西予市明浜町に3つの鯨塚があるようです。それらはすべて市指定文化財になっていて、その一つ「碆の手(はやのて)の鯨塚」(同町高山)は江戸後期の天保8(1837)年6月に捕獲された大鯨に由来するもので、宇和島藩7代藩主・伊達宗紀(春山)の指示で戒名をつけて丁重に葬ったようです。「楠の浦の鯨塚」(同町俵津)は明治3(1870)年、「子持岩の鯨塚」(同町宮野浦)は明治40(1907)年の建立となります。それらは、太平洋からエサとなる小魚を追って、豊後水道から瀬戸内海へ迷い込んだのでしょうか。
そこで少し気になって、近年の愛媛県沿岸におけるクジラの目撃情報を調べてみました。平成19(2007)年3月、宇和島湾で15mのマッコウクジラ。平成27(2015)年1月、今治市大角鼻沖でイルカの大群と10m超のザトウクジラ。令和2(2020)年4月、今治市来島海峡で10mほどのザトウクジラ。令和4(2022)年6月、西予市明浜でマッコウクジラの死骸(残存部9.5m)。令和6(2024)年5月、大洲市肱川下流でハナゴンドウの死骸(2.5m)…というものでした。筆者の地元・今治市の大島宮窪町には「クジラのお礼まいり」という民話がありますが、果たしてどんなクジラが遠い昔に鯛崎島(能島城跡)に姿を現したのでしょうか。
[「クジラのお礼まいり」(海ノ民話アニメーション)]
平成13(2001)年6月3日、その海域で体長13mほどのニタリクジラが目撃さています(写真参照)。
[鯛崎島沖のクジラ(2001年6月3日、渡辺範之氏撮影)]
その時は、民話の信憑性が高まったと地元で大いに話題になったものです。
なお、湊神社の社号額は明治の元勲・伊藤博文の揮ごうによるものですが、その辺りの由来は③で紹介したいと思います。
【つづく】