月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「郡中線をゆく③ ~萬安港旧灯台と栄螺堀~」です。
湊神社を参拝した後は、海岸道路を歩いて五色浜海浜公園を目指しました。途中、伊予市米湊(こみなと)に本社をおく水産加工の食品メーカー「ヤマキ」と「マルトモ」の看板が目に飛び込んできます。
[マルトモとヤマキの看板]
ともに大正時代創業で、鰹節や削り節といえば両社の社名を思い浮かべます。水産加工と物流で栄えてきた港町の源流を知ることができます。
そんな中、筆者のお目当てはというと、五色浜神社そばの「萬安(ばんあん)港旧灯台」と彩浜館の「栄螺堀(さざえぼり)」でした。
[萬安港旧灯台]
[彩浜館の栄螺堀]
これまで、筆者は伊予農業高校を学生募集で何度か訪問することはあっても、郡中の町並みや港をしっかり踏査したことはありませんでした。過去には、平成7(1995)年7月から同10年3月まで運航した、伊予港~大分港の約120kmを約1時間45分で結ぶ高速船「スピーダー」を2度利用した記憶があります。当時、筆者は大分県を調査地としていましたので、とても利便性の高い航路でした。しかし、利用者の伸び悩みで3年と持たず廃止となり、それ以後、伊予港に定期旅客航路はありません。
そもそも、郡中の港の由来はどんなものなのでしょう。井上淳「絵図から読み解く郡中港」『伊豫史談』416号(令和7年1月号)によると、藩政時代にさかのぼります。上灘村(旧双海町)に居住していた宮内九右衛門と弟・清兵衛が、寛永13(1636)年に大洲藩へ米湊村海岸部の開発を願い出ることに始まるようです。同所にはしだいに居住者が増えていき、灘町・湊町・三島町の郡中三町が形成されます。そもそも灘町の町名は宮内兄弟の出身地に由来し、そこから同家は「灘屋」の屋号を称することとなります。文化5(1808)年になると、郡中は米湊村から独立して在郷町となりますが、さらなる発展を阻害する要因が船を安全に繋留(けいりゅう)できる港がないことでした。
[郡中開発の祖・宮内家の旧宅]
当時、伊予灘を佐田岬半島北岸の旧瀬戸町・三机(みつくえ)浦から三津浜へ航行する際、沿岸で安全な寄港地は長浜しかありませんでした。買積(かいづみ)制の時代、どこの港で何を買って(積んで)、どこの港へ運んで売るのかは船頭の商才に委ねられていました。商売道具の船を安全に繋留できない港へは、無理して寄港する必要はありません。〝風待ち・潮待ち〟という言葉がある通り、避難港にもなる風波をしのぐ安全な港が求められました。この問題を解決するため、大洲藩では灘町からの築港願いに応え、文化9年から文政6年(1812~1823)に第1期工事、文政7年から天保6年(1824~1835)の第2期工事を行っています。それは23年間に及ぶ大洲藩と地元商人との協力による官民あげた一大事業となり、今日の伊予港の礎となりました(伊予港の築港整備は昭和33〈1958〉年に完成)。
築港の詳細は前掲論稿に詳しく、概要だけを以下に記すと、1期工事では2本の頑丈な石波止を築くことで風波をしのぐ船溜(ふなだまり)が形成され、実綿を載せた船が多く入港することで、糸車にかけて糸を引き出す篠巻(しのまき)加工の店が増えています。完成後の絵図「与州大洲郡中波戸図」(文政6年)によれば、番所・雁木(がんぎ)・繋船石(けいせんいし)・荷上場・常夜灯などが確認でき、大洲藩主の御座船(ござぶね)をはじめとし、多くの廻船が停泊しています。[与州大洲郡中波戸図(1823年/伊予市教育委員会蔵)]
手狭になったことや港内に流入する砂への対策もあって、2期工事では波止の延長工事と修繕工事に重きがおかれます。他にも護岸工事・海岸線の改良工事・沿岸漂砂への対策として砂留石垣が築かれるなど、いつまでも安心安全な〝萬代不易(ばんだいふえき)〟の港へと改良を重ねて行ったのです。これにより、郡中港は「萬安港」ともよばれ、港口の波止には明治3(1870)年になって石造灯明台の「萬安港灯台」が築かれています。
萬安港旧灯台の石材は花崗岩(かこうがん)で、高さは基壇から頂部まで約6.2mあります。従前は木造の灯明台があったようで、寄港船を増やそうと堅牢な構造にリニューアルしたのでしょう。灯塔の表面には、築造や移築にかかわった商人たちの名前が刻まれています。明治期以降に洋式灯台が普及していく中、現地の解説板によれば、和式の同灯台は港口の増築にともなって大正元(1912)年10月に現在地へ移築され、昭和33(1958)年に新たな灯台が設置されると役目を終えたようです。今では港の歴史を刻むモニュメントであり、シンボルといえます。そばの浜堤には松の大樹が茂り、五色浜神社の社叢となっていますが、これは明治45(1912)年に魚付林(うおつきりん)として植えたものが今日にいたっています(魚付林とは、豊かな漁場を育むための森林をいう)。
[大正〜昭和初期の伊予郡中港(絵葉書より)]
[現在の伊予港内港(五色浜神社付近)]
萬安港旧灯台を検分した後は、そこから200mほど離れた「彩浜館」(さいひんかん)にある栄螺堀を訪ねました。その名の通り、栄螺堀は石組がサザエの形状をした螺旋(らせん)構造の井戸で、潮の干満によって水位が変動したようです。現在の同館は2代目の建物(1989年竣工)で、初代は道後温泉本館と同じ明治27(1894)年に竣工し、まさに郡中港の迎賓館でした。明治37(1904)年にはロシア人捕虜一行を、同42(1909)年3月26日には伊藤博文公爵を同館で歓迎しています。公は松山から郡中線に乗って来遊し、五色(五彩)浜沖の地引網を観賞し、五色(五彩)浜神社・湊神社の扁額や抹茶茶碗に揮ごうをして束の間の郡中名所を楽しんだようです。筆者が湊神社で見た社号額は、その揮ごうを元に彫刻したもので、同社宝物としてガラスで表面を覆っています。公は道後鮒屋(ふなや)に宿泊し、前日は三津浜町で鯛釣りを楽しむなど、松山近郊で熱狂的な歓迎を受けています。
一方、伊藤公は同年3月21~22日には三津浜港から駆逐艦に乗って大三島にも来遊し、大山祇神社の三島宮司邸で一泊しています。
[大三島来遊の記念写真(前列中央が伊藤博文)]
[大山祇神社の社号碑(伊藤博文揮ごう)]
同神社の参詣は、伊藤家のルーツが越智氏庶流一族の河野氏であることにちなんだもので、公は越智宿禰(すくね)博文を公文書で署名することもありました。大山祇神社の祭神「大山積神」の子孫が、越智氏のルーツ・小千命(おちのみこと)なのです。大三島では、著名な政治家の訪問に空前の見物客で賑わったようです。当時の記念写真が今も拝殿前の回廊に掲げられていて、まさに筆者が幼い頃によく手にした千円冊のお顔なのです。公は同所でも社号の揮ごうをし、こちらは伯方島の名工・馬越栄造が花崗岩(かこうがん)の社号碑に刻んでいます。大山祇神社を参拝する際は、二の鳥居そばにあるその社号碑、参拝記念のクスノキ、記念写真額をご覧ください。なお、当時の公は韓国統監の地位にありましたが、同年6月に辞任し、10月26日にハルビン駅(中国黒竜江省)で安重根に射殺されて68歳で非業の最期を遂げました。愛媛来遊は、亡くなる半年近く前の出来事となりますね。
次号④は、郡中線沿線の松前港を散策した際の想い出を紹介したいと思います。
【つづく】