月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「郡中線をゆく④ ~松前港とおたたさん~」です。
一昨年、筆者は初めて愛媛県立伊予高校を訪ねましたが、その所在地が伊予郡松前(まさき)町であることを知りませんでした。伊予市街を巡回しても見つけ出せず、困った想い出があります。20年余り前には、愛媛県近代化遺産調査で東レ㈱愛媛工場(同町筒井)を訪ね、同所に残る昭和12(1937)年竣工の東洋絹織㈱時代の旧工場(鋸屋根形状)を視察したことがあります。その時、正門前に松前城跡の石碑があることを知り、いずれゆっくり訪ねたいと思いながら時が流れました。
1月某日、その再訪機会が訪れました。伊予鉄松前駅前のコンビニに駐車して、まずは天保山旧港ふ頭(松前町浜)にある瀧姫神社を目指して歩きました。[瀧姫神社(天保山旧港ふ頭)]
漁港は内港の奥まった場所にあって、鮮魚店や漁具の物置など漁師町の風情が残っていました。その松前といえば、〝おたたさん〟発祥の地で知られます。おたたさんとは、伊予絣を着て、木製桶を頭上に載せて魚介類を行商する女性のことをいいます。その由来となったお瀧姫が瀧姫神社に祭神として祀られ、地元漁業関係者の守護神となっているのです。〝おたた〟の語源は諸説あるようですが、どうも「おたき」が「おたた」に転訛したようです。現在、町内の塩屋海岸で催される、松前町夏祭りでは、おたたさんの桶にちなんだ〝はんぎり競漕〟が行われています。
松前のおたたさんは、浜地区に住む女性たちでした。郡中線が開業すると、水揚げして余った魚介類を買ってもらおうと、鉄道を利用してそれぞれ得意先である松山市街へと向かうのですが、車中には郡中のおたたさんも乗り込んでいたようです。
[郡中海浜のおたた(絵葉書より)]
古い絵葉書には、重信川の「出合の渡し船」を経由して行商を行うおたたさんが写っています。
[出合の渡し船とおたた(絵葉書より)]
『えひめ、女性の生活誌(平成20年度)』(愛媛県生涯学習センター)によると、昭和22〜23(1947〜48)年には松前・郡中を合わせて100人くらいのおたたさんがいたようで、昭和20年代後半までは頭上運搬のスタイルだったようです。それが背中にブリキ缶を背負うスタイルに変わって、昭和40(1965)年頃にはリヤカーに、またスーパーマーケットも普及し、最後は軽四トラックの鮮魚商にとって代わられて姿を消していきました。それを惜しむかのように、いよてつ髙島屋前の中の川通り交差点(歩道橋付近)には、中央分離帯におたたさんのモニュメントが建っていますが、気づく人は少ないことでしょう(笑)。
[おたたさんのモニュメント(髙島屋前交差点)]
おたたさんのような頭上運搬の女性たちは、昭和26年発行の『民俗学辞典』初版によれば、愛媛県内では伊予郡松前町だけでなく、越智郡弓削村・岩城村・魚島村(現、上島町)・宮窪村・鏡村(現、今治市)、温泉郡興居島村(現、松山市)、新居郡西条市地方にもいたようです。魚島では、昭和27(1952)年に下肥(しもごえ)を頭上運搬する女性が近藤福太郎氏によって撮影されています。
[魚島の頭上運搬(1952年撮影)]
一方、鮮魚を取り扱うおたたさんとは別に、明治時代中期に小魚を調理・乾燥させて販売する人々も現れます。当地のその元祖が浜田佐太郎のようで、瀬戸内海を渡って遠隔地へ行商に出かける〝かんづめ行商〟が大正時代に松前では盛んとなります。1斗缶容器に小魚の珍味などを詰めて、遠く台湾や朝鮮、ハワイまで出稼ぎを行った人々がいました。瀧姫神社に「珍味発祥之地」碑があるのはそのためで、現在も町内には20社余りの小魚珍味を扱う業者がいて、その同業者組合「四国珍味商工協同組合」(同町筒井)まであるのです。
[珍味発祥之地碑(右奥は坪内壽夫顕彰碑)]
イリコを使った商品が多く、松前らしさの詰まった地場産業といえます。酒やビールのつまみ、カルシウム食品など、私たちが何気なく口にしているものに松前産があるのかも知れません。郡中がかつお節のヤマキやマルトモなら、松前は小魚珍味なのです。魚介珍味といえば、松前(まつまえ)漬けが有名ですが、あれは北海道産ですから、間違えないようにしたいものです(笑)。
そしてもう一つ、松前港の歴史で忘れてならいことは、砥部焼が明治18(1885)年に初めての海外輸出(清国)の積み出しを同港から行ったことでした。陶磁器を積んで行商にでかける帆船を、地元では「からつ船」と称したようで、小魚珍味などを回送するのが「五十集(いさば)船」でした。当時の砥部焼の多くが海路は松前港から積み出されています。その商人たちが信仰したのが同港そばの住吉神社で、境内社として金刀比羅神社が鎮座しています。明治末期には、松前に陶磁器問屋が40軒(砥部以外の陶磁器も取り扱う)、からつ船が50隻いたようですが、やがて交通体系の変化や築港整備の遅れなどから衰退していき、砥部焼の積出港は郡中港などにとって代わられます。今でも町内に陶器店が見られるのは、その名残といえます。
[漁船が係留された松前港]
【⑤へつづく】