月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「郡中線をゆく⑤ ~松前城跡と義農神社~」です。
松前町浜にある瀧姫神社を参拝した後、筆者は町指定史跡にもなっている同町筒井の松前城跡へ向かって歩きます(現地には駐車場がない)。これまで現地を再訪しなかったのは、高石垣や土塁、郭(くるわ)などの城郭愛好者を楽しませる城郭遺構がないためです。現地には、大正14(1925)年に建立された秋山好古陸軍大将題字の記念碑があるだけです。関ヶ原の戦い当時、加藤嘉明は松前(正木)城主でしたが、その後、松山城築城がかなうと、本拠は移転されて廃城になったとされます。[松前城跡(東レ前バス停留所)]
寛永年間(1624〜1644)の「伊予国絵図」には古城の様子が描かれているのですが、西側沿岸がすべて伊予灘に面した島の形状をしていて、島内南岸に漁村集落の浜村が立地しています。城下町にあたる松前町は、堀を挟んで東側にあり、まさに松前城は海城といえるものでした。まだこの時点では、古城とはいえ、城郭としての機能を一部残しているようにも思えます。それから少し時代が下って正保年間(1644〜1648)の地図になると、島の状況には変わりないものの、砂州が西岸を囲むように北と南それぞれに伸びて、潟湖に取り残された中州のような姿をしているのです。[松前古城図(正保年間)]
国近川と長尾谷川から河口に流出した砂が、西風で吹き上げられて堆積していったのでしょう。その後は新田開発が進んだことで、東側の水堀は姿を消すこととなります。
以上のような理由から、往時の松前城をイメージするのは難しく、そのことが魅力の低下を招いているように思います。それでも、近所の集落内を歩くと、松前城の城門の一つだった筒井門の遺構が善正寺近くの路上に残されていて、筆者は胸を躍らせました。廃城に際して、確かに松前城の石材・櫓・門などは解体されることになり、筒井門は慶長11(1606)年に解体されて松山城へ移築されたのです。筒井門といえば、松山城本丸下段に位置する本丸最大の門で、一重の櫓門を備えます。[松山城筒井門]
名称は、もとあった場所の地名から付けられたことが分かります。現在の櫓門は昭和46(1971)年に復元されたものですが、忠実に復元されて国の登録有形文化財となっています(昭和24年、放火で焼失)。
その移築にともなう慶長11年の解体中に、嘉明家臣の矢野某氏が棟木(むなぎ)の下敷きになって圧死したそうです。圧死するほどですから、よほどの大きさだったのでしょう。以後、夜間ここを通ると怪奇現象が相次ぎ、人々は矢野某氏の怨霊と恐れます。そこで、礎石の上に矢野某氏を供養する地蔵尊を設けたことで、怨霊は鎮まったとか。礎石は直径約1メートルの円形をした花崗岩で、もともとは4つあったようです。現在、2つあるうちの一つが町道の路面に、もう一つは矢野地蔵の中に隠れています(町指定史跡)。旧城門の位置を知り、松山城の筒井門を思い浮かべることで、城下町のイメージが何となくつかめた気分になりました。
もう夕暮れ時でしたが、矢野地蔵と筒井門礎石から松前駅へ向かう途中、義農作兵衛(1688~1732)を祀る義農神社(義農公園)が目に飛び込んできました。
[筒井門礎石と矢野地蔵]
義農作兵衛の名は、愛媛県では武左衛門一揆の武左衛門とともに、愛媛の藩政史に登場する篤農家として有名です。彼は享保の飢饉に際して、食べるものもなく、餓死者が増える中、麦種を食べることを拒んで死んでいったとされます。それは享保17(1732)年9月23日のことで、この飢饉に際して全国諸藩で最も餓死者を出したのが松山藩でした。筒井村では作兵衛が残した麦種を大切に蒔き、この話を伝え聞いた藩は年貢を免除し、村人は飢饉を脱することができたようです。境内には、安永5(1776)年に松山藩8代藩主・松平定静(さだきよ)によって碑文入りの墓石が建立され、明治14(1881)年には伊予郡の人々によって作兵衛を祭神とする義農神社が創建されています。[義農作兵衛の像(義農神社)]
種麦を枕に死んでいった作兵衛の銅像(越智綱雄作)・台石は、昭和33(1958)年白石春樹愛媛県議会議長らが発起人となり、来島船渠株式会社の坪内壽夫(ひさお)社長が寄贈したものです。台字の揮ごうは久松定武愛媛県知事によるもので、久松知事は松山藩主の子孫であります。白石議長と坪内社長は松前町出身で、幼いころから〝義農祭〟などを通じて作兵衛の生き方に薫陶を受けたものと思われます。筆者は波方町出身ですから、お隣の波止浜地区や大西町にあった来島ドック・坪内社長の武勇伝は、幼いころから聞き及んでいました。義農神社を訪ねたことで、〝再建王〟や〝四国の大将〟と呼ばれた造船界の雄・坪内翁の事績を思い浮かべたしだいです。境内には、坪内翁の顕彰碑も建てられていました。郷土の先人の遺徳を偲び、これを讃える取り組みは、とても大切なことだと思います。
【おわり】