月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、先月の続きの「マリンパーク新居浜へゆく」①です。
ひと口に新居浜港といっても、その範囲は御代島~新居大島~阿島を結ぶ広範囲となります。新居浜市民でないとその位置関係がつかみづらいのは、御代島が現在陸地部であるように、工都として発展していく過程で、埋め立て等で地形が大きく改変されていったからです。住友の発展とともに御代島は臨海工業用地として地続きとなり、その御代島から国領川河口までに広がる港が「新居浜本港」(本港)と称されます。
[現在は陸地部の御代島(絵葉書より)]
4月の春休みを使って、筆者は小学5年生の息子と新居浜港を訪ねることにしました。といっても、国領川より東に位置する「新居浜東港」(東港)です。お目当ては、「海の駅」や「みなとオアシス」にも登録されている海洋レクリエーション施設「マリンパーク新居浜」を訪ねることでした。国領川より東の〝川東エリア〟は、かつて多喜浜塩田や垣生(はぶ)塩田で栄えた地域で、住友別子銅山とは歩んだ歴史が異なる場所であります。前月の拙コラムでも紹介した瀬野汽船グループのオレンジフェリーが、こちらにも寄港していています。
[新居浜東港のオレンジフェリー]
本船は貨物・トラック主体のフェリーで、埠頭にはたくさんのコンテナおよびトレーラーが待機していて、仕向地は神戸六甲港になります。
ここを訪ねるのは、平成15(2003)年の愛媛県の製塩業遺産調査以来となります(正確には、近代化遺産調査等活用モデル事業調査)。主に東予地区の塩田ゆかりの地を訪ね、資料・遺構調査に約半年間を費やしましたが、あれから20年以上の歳月が流れました。あの時と同じように、マリンパークの入口ゲートでは愛らしい赤と白の灯台がお出迎えしてくれました。
[マリンパーク新居浜の入口]
両灯台は、この公園整備に合わせて設置したモニュメントのように感じますが、実際は、かつて新居浜港を照らしたホンモノの灯台の灯籠部分を再利用したものなのです。解説板によると、昭和13(1938)年5月の新居浜港開港に合わせて同12(1937)年12月1日に初点灯したもので、元は共に六角形鉄塔の構造をして灯点までの高さは8.8mあったようです。赤灯台は昭和61(1986)年12月、白灯台は昭和62(1987)年12月に現在ものものに更新されるまで運用されました。そのため、半世紀近く新居浜港の歴史を見守ってきた近代交通遺産として、新居浜マリーナの供用に合わせて移築保存されることになったようです。
たまたま訪ねた日は、イベント広場で愛好家らによるスポーツカーの展示が催されていました。
[マリンパーク新居浜のイベント広場]
公園では、遊具やバーベキューを楽しむ家族連れもいて、夏になればそこが海水浴で賑わうことも十分想像できました。宿泊施設やお洒落なレストランもありました。新居浜市の中心市街地から離れた場所に、こんな憩いの海浜公園があることを知る県民はそう多くないと思います。しかし筆者が訪ねた目的の一つは、公園内にあるアッケシソウ(厚岸草)の栽培地を観光することでした。
[マリンパーク内のアッケシソウ栽培地]
アッケシソウとは、塩水をかぶる砂地に生える無毛の一年生草木で、高さ15~30㎝に生長します。茎は濃い緑色の多肉質で、秋になるとしだいに美しい紅黄色になり、赤サンゴのような美しさで見るものを楽しませてくれます。公園は垣生山に隣接しますが、この生育には垣生公民館・垣生連合自治会・垣生山よもだ会が関係しており、アッケシソウは新居浜市の市指定天然記念物になっているのです。
新居浜市の歴史といえば、どうしても住友別子銅山が思い浮かびますが、川東エリアにあっては塩田の歴史が地域史としてとても重要です。江戸時代の元禄年間に、別子銅山の開坑で歓喜に沸いた先人がいた一方で、国領川東では入浜塩田の開発に身を投じた先人もいたのです。それが多喜浜塩田の始まりであり、垣生塩田もつくられました。その塩田に関係する海浜植物がアッケシソウとされ、由来は北海道厚岸町で発見されたことによります。なぜ新居浜市にアッケシソウが自生するのかは、塩田時代の北前船に起因すると考えられてきました。当時の商船は買積制のため、どこでどんな荷を積み、どこで売るのかは船頭の商才に委ねられていました。一説には、多喜浜に塩を買いにやって来た北前船が、荷役の際に船体バランス調整で載せていた砂を海岸に捨て(今でいうバラスト水)、その中にアッケシソウの種子が含まれていたというのです。しかし、これを鵜呑みにしてはいけません。
平成15年当時の調査を振り返ると、厚岸町の関係者が新居浜市を訪問し、アッケシソウのDNA調査をしている場面に遭遇しました。
[阿島・岡田家のアッケシソウ(「多喜浜塩田遺跡めぐり」より)]
アッケシソウの栽培地は、阿島地区の岡田家でも観賞することができ、秋になると毎年のように地元紙で記事に取り上げられていました。国内では厚岸町と新居浜市の他に、北海道根室市能取湖(風蓮湖)・網走市サロマ湖、香川県坂出市玉越町木沢、岡山県浅口市寄島町で自生が確認できるとのこと。国外では韓国仁川市龍游島や全羅南道新安郡沙玉島などで確認でき、それぞれで標本が採取されたようです。その調査報告書「瀬戸内海地方に隔離分布する絶滅危惧種アッケシソウの起源」『植物研究雑誌』第85巻第3号(2010)によると、北海道産と新居浜市の標本では、遺伝的なつながりは確認できなかったようです。むしろ、韓国産と瀬戸内海産とが遺伝子的に一致を見ることから、過去の交易の際に朝鮮半島から人為的に瀬戸内海地方にもたらされた可能性が考えられるとのことでした。また、そもそもアッケシソウは、かつて瀬戸内海の塩湿地に広く分布していたことから、開発や埋め立てによって生育地が減少し、塩田跡地のような特殊な環境に生き残ったのではないかという可能性に言及しています。垣生塩田は昭和初年に、多喜浜塩田は昭和34(1959)年に廃止となりますが、塩田時代のこぼれ話として、多喜浜地区では刺身のツマ代わりにアッケシソウが出されていた時期があったと証言する古老もいました。
筆者がかかわった多喜浜塩田の調査では、多喜浜公民館と旧塩田地主(浜旦那)の藤田本家・藤田分家・小野榎之家の3家によく足を運ばせていただきました。
[多喜浜塩田の古写真(小野榎之家所蔵)]
ちょうどその頃、多喜浜公民館が収蔵する塩田用具を使って塩田資料館を建設できないか、地区住民あげて市に陳情するタイミングとも重なりました。新居浜市民のアイデンティティが住友別子銅山だけではないということを知り、大きな衝撃を受けたことを覚えています。そんな想い出がよみがえる中、マリンパークに別れを告げ、久しぶりに多喜浜塩田ゆかりの史跡を訪ねることになります。 【②へつづく】
イベント名 | マリンパーク新居浜へゆく① |