月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「マリンパーク新居浜へゆく」②です。
塩田史は、様々な歴史ジャンルの中にあって、どこかとっつきにくく、とてもマイナーなものと感じています。このため、筆者は大学2年生の夏休み(1993年)に故郷・波止浜塩田の歴史をレポートにまとめた際、郷土史の本をまる写し(コピペ)したように記憶しています。それでも、入浜塩田の遺構や塩田ゆかりの史跡を訪ね歩いた経験は、平成15(2003)年度実施の愛媛県の製塩業遺産調査につながる〝大切な一歩〟であったと感じています。
江戸時代の後期にもなると、国内塩の約9割は瀬戸内海沿岸の十州地域(周防・長門・安芸・備後・備中・備前・播磨・讃岐・阿波・伊予)で生産されたともいわれます。「十州」とは旧国名を意味しますので、この10の国々の中に伊予国の「予州」も含まれます。これは入浜塩田経営の好条件を、十州地域が持っていたことになります。〝遠浅の海浜〟〝年中温暖で晴れの日が多い〟〝花崗岩質(かこうがんしつ)の土壌〟などの風土とともに、〝西廻り航路沿い〟の地の利が十州地域を塩田産地へと変えていきました。このため、瀬戸内海地域において塩田史は、決してマイナーではなく、王道をゆく地域史ととらえることができるのです。
しかし、入浜塩田が増えていくことは塩の過剰生産を生み、塩価の下落を招くマイナスの要因もはらんでいました。そこで、明治38(1905)年に成立したわが国の塩専売制度でその課題を解決しようと、小規模で生産性の低い塩田の整理(廃止)が断行されました。時期がちょうど日露戦争(1904~05)と重なったことで、戦費調達の側面に注目が集まりますが、これは国内塩業の保護をはかるという点でとても大きな意味をもっていました。塩田は全国津々浦々にありましたが、愛媛県ではこれによって明治末期に中予・南予の塩田がすべて姿を消すことになります。一方、波止浜・多喜浜・越智郡島しょ部の優良塩田は地場産業として存続を認められ、昭和初年には国内の塩田面積の9割以上が瀬戸内海沿岸に集中することになりました。
多喜浜塩田の歴史をコンパクトに振り返ることにしましょう。瀬戸内海の入浜塩田開発は江戸時代中期の元禄年間ころ(1688~1704)から盛んとなりますが、新居郡では川東地域と黒島との間に広がる「黒島前干潟」に注目する人々がいました。今でいうデベロッパーとでもいいましょうか。そのリーダーが深尾権太夫(権太輔)で、彼は西条藩に願い出て宝永元(1704)年から工事に着手しました。計画が壮大だったためか資金難等で完成にはいたらず、享保5(1720)年の権太夫の死によって事業は頓挫してしまいます。この遺志を継承したのが天野喜四郎らで、塩田の先進地である備後国吉和浜(現、尾道市)から招聘されています。そして享保9(1724)年に11軒の入浜塩田(古浜ともいう)を誕生させますが、後背地の新田開発を合わせると約20haの干拓となりました。塩田の経営単位は「軒」や「戸」を用いることがありますが、これは採鹹(さいかん)を行う1~2haの塩田地場に煎熬(せんごう)を行う1軒の釜屋が付属するためです。釜屋の数を知れば、その産地における経営規模の見当がつきます。
[多喜浜塩田の採鹹風景(小野榎之家所蔵)]
[多喜浜塩田図(『多喜浜の昔を語る』より)]
[多喜浜塩田之図(『伊予国地理図誌』より)]
[昭和30年撮影の多喜浜塩田(『塩田のおもかげ』より)]
また、入浜塩田の開発では、新田開発も併せて実施されることが多く、一石二鳥や一石三鳥の効果をねらっている点がポイントになってきます。黒島前干潟では、それまで小さな島であった久貢島(くぐしま)が陸続きとなって久貢山に姿を変え、そこに天野家は屋敷を構えて塩・薪〈石炭〉問屋となりました。このため、喜四郎の墓はそこに存在し、その地は〝久貢屋敷〟と称されるようになります。現地には、トレードマークのソテツ(県指定天然記念物)と〝多喜濱塩田開基〟と刻まれた喜四郎の顕彰碑(1970年建立)があり、その揮毫(きごう)は元別子鉱業所支配人・住友合資会社重役の鷲尾勘解治(わしおかげじ)によるものです。
享保18(1733)年にも、喜四郎らはその東隣に17軒の塩田(東浜ともいう)を開発しますが、これは藩による「享保の大飢饉(ききん)」の難民救済事業でありました。新田を合わせると約36haの干拓となり、多くの喜びをもたらしたことで〝多喜浜〟と称するようになりました。さらに宝暦9(1759)年には、それらの西隣へ約104haの干拓を行い、今度は小久貢島が陸続きとなります。この干拓のほとんどは新田開発が目的で、塩田はわずか2軒(久貢浜ともいう)しかありませんでした。
その後も干拓は続きます。江戸後期の文政6(1823)年には、多喜浜東分(東浜)の沖合を約40ha干拓して塩田17軒(北浜ともいう)を誕生させ、有人島の黒島が陸続きとなりました。幕末の慶応元(1865)年には、多喜浜東分の東隣に約40haの干拓を行い、6軒の塩田(三喜浜)と新田が誕生しています。以上、5期にわたる開発で約240haの塩田・新田が誕生し、総じて「多喜浜」と称されることもありますが、塩田は53軒100haを超える規模となりました。干拓がなければどのような景観だったことでしょう。現在のJR予讃線の線路沿い下までが、満潮ともなれば海岸線が迫っていたことになります。
権太夫は、この地に広大な塩田開発を夢見た先哲として多喜浜塩田史の中に位置づけられています。近代になると、各種業界において事始めの先人を顕彰する動きが盛んに見られます。近代以降も多喜浜塩田が地場産業として発展したことで、彼の墓所がある黒島の明正寺(みょうしょうじ)には、昭和9(1934)年4月に「深尾権太夫翁二百年祭」を記念する石碑が建立されています。
[深尾権太夫の墓所]
寄進者の中には、地元の塩業関係者に混じって、筆者の出身地・今治市波方町の石炭船主の名前も見ることができます(墓石の宝篋印塔は、昭和52〈1977〉年4月に新居浜市の史跡に指定される)。明正寺のそばには、かつて大蔵省の出先機関として坂出専売局多喜浜出張所(洋風の庁舎)が設置され、黒島港は煎熬燃料の石炭を積んだ船の寄港地となり、塩の積出港でもあったのです(現在、黒島港は新居大島行きのフェリーが寄港)。
[かつて黒島にあった塩専売庁舎(小野榎之家所蔵)]
一方の天野家は、初代喜四郎が1期目の開発を成功に導いた後、子孫が代々その後の開発にもかかわりました。そのため、久貢屋敷は多喜浜塩田のシンボルのような場所ともいえ、塩竃神社の役割を果たした「湊神社」とともに聖地のような位置づけでとらえられることがあります(湊神社は、塩田廃止とともに現在地へ移転。もとは塩田の中にあった)。
[久貢屋敷の天野喜四郎墓所(4月7日撮影)]
以前は墓所が久貢山の中腹にありましたが、平成30(2018)年にソテツそばに移設され、20年ぶりの訪問となった筆者にはサプライズとなりました。
[久貢屋敷のソテツ(4月7日撮影)]
しかし、多喜浜塩田の史跡散策はこれで終わりません。多喜浜が塩田として隆盛をきわめるのは近代です。権太夫や喜四郎以外にも先哲がいるのです。このあと、筆者は岡城館歴史公園へと向かいます。
【③へつづく】
イベント名 | マリンパーク新居浜へゆく② |