レポート
2024.07.13

マリンパーク新居浜へゆく③

月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。

今回は、先月の続きの「マリンパーク新居浜へゆく」③です。

 

岡城館歴史公園の場所(新居浜市楠崎1丁目)には、藩政時代に西条藩が多喜浜塩田を管理する際に塩役所が置かれていたようです。

[岡城館歴史公園(すぐ背後に予讃線)]

そのため、そばを流れる川は「役所川」(やくしょがわ)とも呼ばれ、塩田の惣肝煎役(そうきもいりやく)を務める藤田家が明治になって藩から払い下げを受けて屋敷を構えました。藤田家は西条藩剣術指南役を務める家柄でもあり、ここに「岡城館」(こうじょうかん)という練武場を設けています。その藤田家では、明治になって当主・藤田吾郎の娘に婿を迎えて分家を立てたことから、同所に居を構える藤田家は〝藤田本家〟を称するようになります(3軒あった所有塩田のうち1軒を分与)。

 

 筆者は平成13・14(2001・02)年度の県近代化遺産調査で、筆者は初めてその藤田本家を視察することになります。市役所の職員に連れられて現地に到着するや、目の前に現れた広大な屋敷地(6,044㎡)に、映画「犬神家の一族」を連想せずにはいられませんでした。それまで多喜浜塩田史を語る際は、天野家・岡本家・小野家(榎之本)を例にあげることが多かったのですが、それは近世や藩政時代の資料を研究対象にしていたためです(小野家は、屋号の榎之本で称されることが多い)。その場合、開発史や地主・浜子の格差に目がいきがちで、筆者にとってはどこか面白みにかけるものでした。

平成15(2003)年度の調査では、この藤田本家から近代以降の多喜浜塩田に関する資料が見つかり、資料の把握に努めるため、筆者はその目録を急ごしらえで作成することになりました。休日返上で極寒の中を同家納屋に入り、1日という時間的制約の中で長持ちから帳簿類を取り出して記録を採り、写真撮影を行いました(当時30歳)。この調査に対して、最初はご当主の藤田吾郎氏も困惑していましたが、昼食抜きで励もうとしていた筆者に温かいうどんをご馳走して下さりました。資料の価値は、多喜浜塩田の空白を埋めるに等しいもので、その第一発見者として調査員冥利に尽きました。

 多喜浜(当時の経営規模52軒)では、明治26(1893)年に27軒の塩田を地主らが持ち寄って、「東浜産塩(ひがしはまさんえん)株式会社」という法人を組織します。〝○に東〟の商標から、地元では〝マルトウ〟が通称名でした。その社長を藤田本家の藤田新治(明治9~昭和30年)が長く務めたことで、その経営に関する資料が多く同家に残されることになりました。実は、多喜浜塩田が最も隆盛を極めるのは近代で、その華やいだ時期の塩田経営の実態や塩田地主である浜旦那の動向を知ることはとても重要です。

[藤田新治肖像画(水木伸一画/藤田本家所蔵)]

 

本稿ではその詳細については記しませんが、新治の姉婿で藤田分家の藤田達芳(安政5~大正12年)は衆議院議員を1期務め、「塩田国有論」を唱えてわが国の塩専売制の原動力にもなりました。同家には、彼が塩政界で果たした功労を示す資料や東浜産塩が煎熬用の竈を独自開発しことを示す資料などが見つかっています。

[藤田本家で見つかった「東浜産塩の商標登録証」]

達芳は、多喜浜最大の浜旦那である小野家(榎之本)の分家の出自でした。一方、小野家の当主・小野信夫(明治18~昭和35年)は趣味に生きた人で、調査では新居浜市の近代史にとって貴重な古写真・絵葉書を多く収蔵していることが分かりました。同家には、全国で数体しか確認できていない明治天皇・昭憲皇后を模した「変わり雛」(雛飾り)があることも明らかとなり、愛媛県歴史文化博物館で平成17(2005)年春に一般公開されて話題となりました。

[小野家所蔵 変わり雛(愛媛県歴史文化博物館『おひなさま展』より)]

 

小野家では、広い屋敷の中に牡丹園「成趣園」を設けて一般に開放し、昭和戦前は広瀬家のツツジ・オソザクラと共に新居郡を代表する花の名所だったようです。岡本家の当主・岡本忠道(明治21~昭和58年)は、新居浜の洋画界の草分けの一人で、青春時代から洋画を嗜み、90歳を越える晩年まで創作活動を続けました。こうしたことから、筆者は〝文化を奏でた浜旦那〟というキャッチコピーを提唱して、多喜浜塩田の近代史の新たな一石を投じることになりました。

 藤田新治は、昭和15(1940)年に宮内省済寧館(さいねいかん)で開催された紀元2600年記念天覧試合では、全国篤志家剣士4名の一人に選ばれ出場を果たしています。孫の藤田吾郎氏も、大学生の時に学生チャンピオンに輝くなど、同家は新居浜地方の剣道界発展に尽力しているのです。そんな新治のもとには、剣道界のみならず製塩業界の客人が訪ねてくることも多く、同家は昭和3(1928)年にその接待館として、母屋の隣に木造二階建て離れを新築しています(木造平屋の母屋は昭和2年築)。二階には大きな窓ガラスを設け、(広瀬邸の〝望煙楼〟に対して)多喜浜塩田を一望できる〝望塩楼〟の役割を果たしたことでしょう。

[昭和初期の藤田本家(現地解説板より)]

 

平成23(2011)年11月に、筆者は1度だけその2階に足を踏み入れたことがありますが、それから間もなくしてその離れは取り壊されてしまうのです。そうなるにいたった要因は、少し時間を巻き戻す必要があります。

 平成16(2004)年8月18日に起きた台風15号による集中豪雨で、多喜浜地区は甚大な被害を受けました(3名亡くなる)。

[被災から間もない時期の藤田本家(平成16年夏撮影)]

[被災から間もない時期の藤田本家]

 

報道を知った際、筆者は藤田本家などの浜旦那旧宅が気になりました。ただ当時を振り返ると、人命救助やライフラインの復旧が急がれる中、文化財の救済は二の次であり、正確な情報を知り得ようものなら、自ら現地に足を運ばせるしかありませんでした。最初の1週間は自衛隊も出動するなど、関係者以外立入禁止の状態で、解除となった24日早朝に筆者は現地訪ね、大きな衝撃を受けることになります。役所川に流木や土砂が堆積して氾濫を起こし、藤田本家の屋敷内を土石流が襲ったことを知ります。藤田吾郎氏夫妻は離れに逃れて無事でしたが、母屋や岡城館は床上浸水で、当面の生活にも困る状態でした。それは、近所の集落も同様で、汚水の臭いが漂って、その場にいるのがつらく感じられました。後日、筆者は多喜浜公民館を拠点にした新居浜市社会福祉協議会の災害ボランティアに参加し、藤田本家の土石流除去や土嚢づくりなどに励みましたが、その中で前年度の調査で見つかった資料の無事を確認することができました。

その後、藤田本家の塩業資料は、愛媛資料ネットらの救済活動等もあって未来に継承することはかないましたが、自力での屋敷復旧はあきらめざるを得ませんでした。幸い、岡城館は門下生らの募金活動等で平成18(2006)年に復旧を果たし、屋敷は藤田家から平成22(2010)年12月28日に新居浜市へ寄付されることになります。

[2006年に復旧した岡城館]

被害の少なかった離れについて、藤田吾郎さんは、「多喜浜塩田資料館に活用して欲しい」という願いを抱いていたようですが、市は最終的に解体を決め、同26(2014)年4月26日に岡城館歴史公園として再生されることになりました。

[解体前の藤田本家離れ(左)と母屋(右)「愛媛新聞」〈2010.12.29付〉より]

 

[旧藤田本家の全景(現在)]

今でも現地を訪ねると、土蔵と建物の基礎石はそのまま残され、解説板も多く設置して、多喜浜塩田とともに歩んだ浜旦那の歴史を感じとることができます。昭和9(1934)年夏に多喜浜の労働者が塩田争議を起こした際、藤田本家が経営陣の象徴としてとらえられ、多くの浜子たちがここに押し寄せています。この争議は、愛媛県の塩田争議としては、近代以降最長となる約1か月に及びました。公園にたたずむと、多喜浜塩田の歴史がよみがえってくるようです。   

 

【おわり】

 

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