レポート
2024.02.20

伯方塩業創業50周年祭へゆく③

月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。

今回は、先月の続きの「伯方塩業創業50年祭へゆく」③です。

 

平成16(2004)年秋に、筆者が乗船した貨物船は499総㌧型の内航船でした。操縦を担う航海士が3名、機関操作を担う機関士が2名乗船し、積荷は1,600㌧ほどでした。貨物船のオーナーは、東京の日本塩回送㈱で、家業の会社はその船員の管理を主に行っておりました。父も長く塩船の船長を務めていました。筆者は航海士の見習い当直部員として、操縦や接岸・離岸時のロープワークに励むことになります。塩の積み地は製塩工場のある小名浜(福島県)・坂出(香川県)・赤穂(兵庫県)・山田(岡山県)・崎戸(長崎県)などで、揚げ地は日本海沿岸・三陸沿岸・北海道などでした(徳島県の鳴門は199総㌧型貨物船が対応)。坂出・赤穂・山田といえば、塩田産地の系譜を引くイオン交換膜製塩工場が今もあります(掲載写真は(株)日本海水の讃岐工場。積み荷役を待つ貨物船を2024年2月撮影)。

㈱日本海水の讃岐工場(坂出市内)

[㈱日本海水の讃岐工場(坂出市内)]

499総㌧型貨物船とイオン交換膜製塩工場(坂出市内)

[499総㌧型貨物船とイオン交換膜製塩工場(坂出市内)]

 

筆者が初めて乗船した港が小名浜港(いわき市)で、北海道の苫小牧か釧路で荷揚げしたように思います。貨物船は運航上、荷揚げ後に空船で走ることは憚(はばか)られ、運航会社(オペレーター)は揚げ地の近くで積み荷を探し、北海道から南下する際は小麦を積むなどして、経営効率の良い運航を心がけていました。塩船だから塩ばかり積んでいるのではなく、小麦以外にはチップ・フスマ・鋼材・パルプ・古紙などの積み荷もあり、種子島へロケットの部品を輸送したこともあったようです。

 

 一方、平成9(1997)年4月、今日の塩事業法施行により、明治38(1905)年施行の塩専売法が廃止となり、92年の歴史に幕を降ろしました。専売公社に代わって、塩事業センターが国民に向けた塩の安定供給を司ることになります。規制も緩和され、誰もが塩の製造・販売に挑戦できる時代が到来したのです。ただし、従来通り安価な食塩を国民に供給する必要性に変わりはなく、イオン交換膜工場を有する塩メーカーは、同センター指示のもと、割り当てられた数量の食塩を製造しました。このため、塩の積地で見かける荷の多くはセンター塩となりますが、メーカーごとで融雪剤や天日塩など、バラエティに富んだ積荷を見かけることもありました。

イオン交換膜からできた食塩(センター塩)

[イオン交換膜からできた食塩(センター塩)]

 

そうした中、筆者が乗船する平成16(2004)年前後、塩業界に大きな波紋が渦巻いていました。まず、イオン交換膜工場を有する岡山県の錦海塩業㈱が平成14(2002)年に製塩業を廃業したのです。しかし、これは序章に過ぎませんでした。もっと大きな渦は、小名浜にあった新日本ソルト㈱と赤穂にあった赤穂海水㈱が同16年10月に合併して株式会社日本海水が誕生したことです。同社は平成18(2006)年に坂出にあった讃岐塩業㈱も吸収合併し、国内企業で唯一複数の製塩工場を有する、リーディングカンパニーの誕生につながりました。現在は国内塩のシェア40%以上を占めているようです。当時、親しくなった山田(現、玉野市)在住のナイカイ塩業㈱の友人が、ドラスティックな業界再編の動きに戦々恐々としていたのを覚えています。筆者の家業もこの頃から経営が傾き、筆者のような当直部員を乗船させる余裕はなくなり、筆者は1年ほどで下船を余儀なくされました。専売制のもとで〝親方日の丸〟的恩恵を受けてきた業者は、厳しい競争社会にさらされることになりました。

 

 筆者にとっては、通算1年ほどの乗船期間でしたが、全国各地を旅費・食費なしで探訪できる内航船員の生活は、歴史家として得がたい経験を積むことができました。全国津々浦々の港町で、海をテーマにした博物館や近代化遺産、史跡と巡り会う機会を得ました。これまでよりもワイドに地域史と向き合うことができました。陸からではなく、海から見た視点に気づかされ、「航路をにらむように立地する前方後円墳」「海上交通の要所にある村上海賊の城」「航路整備で近代に誕生した灯台の価値」など、全時代を通して海の歴史を見る大切さに気づくことができました。ソルトヒストリーもその一つであります。そんな中、船員生活にも慣れてきた平成17(2005)年夏、筆者は北海道の留萌(るもい)港にいました。留萌といえば〝夕陽の眺めが日本一美しいまち〟として有名ですが、埠頭ではご当地アイスクリームが販売されていました。店員の女性から、「お兄さん、世界遺産の知床の塩の入ったアイスクリームはいかが?」と声をかけられ、少し違和感を覚えました。《知床では塩はつくっていないはずだ!》そこで、アイスを買うついでに「すみませんが、知床では塩を作っていないと思いますよ」と店員に訊ねたところ、原料の塩のパッケージを見せてくれ、そこには【羅臼(らうす)の塩】と表記されていました。確かに羅臼は知床半島沿いのまちですが、筆者はそこでも海水から塩は作られていないと否定。機嫌を損ねる店員に対して、パッケージの裏面に目を向けさせると、そこには【原産国 豪州】と記されていました。つまりは、伯方塩業と同じ製造方法でつくられていることが分かり、「豪州とは、オーストラリアのことですよ」と解説すると、店員は言葉を失って混乱をきたしました。きっと、店主から言われたままの営業トークを行っていたからでしょう。

 実はこの経験談には伏線があります。筆者が県近代化遺産等活用モデル事業(平成15年度)の調査に取り組んでいた頃、帰宅途中にセルフうどんのお店に立ち寄って、残業を終えた遅めの夕食をとっていた時のことです。当時、タモリ・高橋克実・八嶋智人をMCとする人気バラエティ番組「トリビアの泉~素晴らしきムダ知識~」(2003~2006年全国放送)が店内で流れていました。提示されたテーマに対して、驚きや得心を示した場合にゲストが「へぇ」のボタンを押し、その押した数の多さで雑学度を品評するというものです。平成15(2003)年9月24日の放送に【№240 伯方の塩はメキシコ産】が登場し、多くの「へぇ」を獲得して場内が沸きました。筆者は、その反響に驚き、思わず口に含んでいたうどんを吐き出してしまいます。それは面白いからというのではなく、憤りからくる感情でした。〝伯方の塩〟の由来が忘れ去られ、番組の一部分だけを切り取れば、あたかも伯方塩業が商品偽装しているかの印象操作を感じたからです。放送後、そのことは愛媛県民の間で話題となり、筆者の身近でも伯方塩業の悪口を囁く人々が増え、塩田塩を残すため消費者運動を起こしたヒーローが一転、ヒール役に変わってしまったのです。テレビの力は改めて恐ろしいと感じました。〝伯方の塩〟誕生からちょうど30年が経過しようとしていました。

 

 その後、〝伯方の塩はメキシコ産〟を持ちネタのように吹聴する人を何人か見かけましたが、皆に共通するのが「伯方の塩は岩塩を使っている」というものでした。ただしくは、天日塩の〝原塩〟であるのに、原塩と岩塩の区別もできない知識で、自らが博識であるかのように装って雑学を披露する姿は、とても滑稽に映りました。しかし、そうした混乱が生じた背景には、平成9(1997)年の塩専売制廃止があり、伯方塩業はさらに由々しき事態に直面するのです。 

伯方塩業松山本社(JR松山駅前)

[伯方塩業松山本社(JR松山駅前)]

 

 【④へつづく】

イベント詳細

イベント名伯方塩業創業50周年祭へゆく③
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