レポート
2024.11.15

釣島灯台へゆく②

月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。

今回は、先月の続きの「釣島灯台へゆく」②です。

 

四半世紀ぶりに釣島を訪問することになった筆者ですが、島に上陸するや、すぐに目に飛び込んできたのは整然と並んだ陶器のタコ壺でした。

[釣島港のタコ壺]

かつてタコ漁が盛んで、以前はもっとたくさんのタコ壺を見たように記憶しています。島の古老に訊くと、今は誰もタコ漁を行っていないようで、海水温の上昇等で獲れなくなり、しばらく漁を行っていないとか。島民の人口も令和2(2020)年の国勢調査で33人だったのが、現在は25人ほどといいます。島にあった小学校も平成24(2012)年3月末から休校の状態で、島で一番若い住民は柑橘農家をやっている50歳代の人とのことでした。足腰が弱くなるなど、島生活に支障を来たす高齢者は、島外の施設で暮らしているようです。これは筆者の地元今治市の来島・小島(おしま)の現状とよく似ていると感じました。小島にいたっては、人口が減ったことで耕作放棄地がイノシシに荒らされ、観光資源の景観が台無しとなっています。釣島ではイノシシ被害はあまり見られないようで、灯台敷地にもイノシシの活動した痕跡はなく、安堵したしだいです。

隣の興居島では移住者が見られるようで、釣島でもそれが可能だとすれば、やはり釣島灯台の観光が鍵を握っているように思います。なかなか通えない島を逆手にとり、灯台の魅力をもっとPRして、行くことに価値を見出す必要性があります。定期船の便が少ないようなら、空き家や小学校をゲストハウスにするもよし。灯台の旧官舎そのものを宿泊所や美保関灯台の旧官舎のようにカフェにするもよし。大洲城天守が宿泊所の商品になる時代ですから、観光客が灯台官舎に泊まることは何ら不思議なことではありません。今回の訪問では、ラジオ収録の合間の4時間余りを旧官舎で過ごすことになりましたが、かび臭さと外の簡易トイレの現況を除けばとても快適でした。

➀でも紹介したように、旧官舎は洋式そのもので、暖炉も4つ備わっていました。上げ下げ窓のガラスや暖炉の鋳鉄製資材は輸入もので、材木こそ国産ですが西洋の高級建築材に見せるために木目塗りの装飾を施していました。

[旧官舎内の木目塗りの建具]

灯台が初点灯した明治6(1873)年当初は英国人が灯台業務を行ったことから、官舎は彼らが過ごしやすいように洋館の設えでした。英国人が去った後は、床を畳とするなど、部分的に日本人に合った設えに改変しました。官舎は昭和38(1963)年4月に灯台が無人標識化されることで使われなくなり、平成7(1995)年に松山市へ払い下げされる際(倉庫も含む)は朽ち果てた状態でした。これを松山市が3か年かけて修復しますが、総事業費は3億1千万円余りかかったとのことです。

[灯台官舎の修理ビフォー・アフター]

修復作業の過程で、初期の業務日誌が壁から下張り文書として見つかるなど、新たな発見もありました。そして初点灯当時の姿に復原したことで、まさに愛媛県最初の洋館が現代によみがえったのです。

かび臭さは換気をしないためで、建物のコンディションのためにも、定期的に人が利用するのが望ましいと思われます。簡易トイレを水洗トイレにするためには、利用者の定期的あるいは恒常的な利用が求められてきます。上水道の問題は、平成14(2002)年4月から海水淡水化装置を備えた「釣島共同給水施設」の供用開始で、問題なく生活水が使えるようになりました。灯台そのものには井戸があったようで、旧官舎そばに施設の遺構が見られます。

[井戸の遺構と旧官舎]

また、雨樋で集めた水を貯水タンクへ溜めていたようで、水に苦労した歴史が偲ばれます。現在は、年2回だけ清掃ボランティアの参加者らに灯台・旧官舎が一般公開されるようですが、多額の公金を使って復原修理をしたからには、もっと活用して利益を生み出す施設に変えていく必要があるように思います。利用してこそ、改めてその価値が高まるのかも知れません。泊まれる重要文化財として、マナー意識の高い方々への開放をご検討いただきたいものです。

灯台については、現在の付属舎は灯台資料館の役割を果たしています。しかし筆者はパネルや付属品の展示よりも、当時の鋳鉄製のらせん階段をのぼって、かつてレンズのあった灯籠部分に立つのが悦でありました。明治6(1873)年の初点当時の光源は三重芯石油灯器、3等不動レンズ、光達距離20浬(約37㎞/浬はカイリ)というものでした。今はLED照明に転換され、もとのレンズがどこにあるのかは不明とのことです(支柱にはバーミンガムで1872年に製造されたこと刻む銘板がある)。この状況は鍋島灯台についても同様で、住民が航路標識にもっと関心を寄せることで、そうした事態を防ぐことができたのかも知れません。近年は、海上保安庁も地域との連携事業に力を入れ、灯台も文化財に指定・登録される時代となりました。筆者が灯台に興味を持つようになった四半世紀前とは大きな違いです。そして、前回の訪問では軽視していた灯籠に見られる弾痕の凹みに目が行きました。太平洋戦争末期に米軍機のグラマンに撃たれたものと思われますが、灯光器が損傷して灯台業務が滞った期間もあったようです。

[灯籠に残る敵機の弾痕]

[灯光器の銘板]

海上や上空から目立つ存在であったことから、標的とされたのでしょう。釣島灯台は、愛媛県最初の洋式建築であるとともに、近代交通遺産と近代戦争遺産としての価値も持ち合わせているのです。

灯台は地域にとってのランドマークタワーやシンボルであり、灯台守がいたころはその家族と同じ小学校に通う子供どうしの交流もみられたという話は各地で耳にします。釣島では、大正2(1913)年に小学校が開校される前は、灯台官舎で島の子供たちは読み書きそろばんを習っていたそうです。また、島の子供たちがテレビを初めて見たのも灯台官舎で、ちょうどプロレスラーの力道山が一世を風靡(ふうび)したころの話です。今では、力道山のテレビを見たという世代は島で古老となっていて、人口25名ほどの釣島で島守の役割を果たしています。灯台守を受け入れてきた歴史のある島で、今後は島外からの灯台観光客を受け入れる島に変われるか。島にしばらく滞在して、のんびり太公望として時間を過ごすもよし。旧官舎にテレワークの環境が整っているようなら、短期滞在で集中したデスクワークができるのかも知れません。何より、旧官舎からの眺めがよく、夜間は星空と共に通航船舶の赤・青・白の舷灯に癒されることでしょう。そうなる日を夢見ながら、筆者が高浜港へ帰着したのは横殴りの雨が降り注ぐ午後8時のことでした。

[夕方になって点灯]

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