月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。
今回は、「釣島灯台へゆく➀」です。
11月1日の「灯台記念日」に合わせ、南海放送ラジオの番組収録が釣島(つるしま)灯台で行われました(杉作J太郎とリリー・フランキーの灯台ラジオ/15:40~18:15)。幸運にも、筆者はそのスタッフ・出演者が乗船する海上タクシーへの帯同を許され、同日午後に高浜港から30分かけて釣島を目指すことになったのです。当日の天候は雨。通常の灯台観光なら、往路は三津浜港9:10発の中島汽船フェリーに乗船し、9:35に釣島到着。
[釣島灯台]
しかし灯台は松山海上保安部、旧吏員退息所は松山市教育委員会の所管となっていて、許可なく内部への立ち入りはできません。そして日帰りなら、復路は釣島16:02発の同フェリーに乗って16:25に三津浜港帰着という便だけとなります。
自身の記憶をたどると、23~24年前に2度ほど、愛媛県近代化遺産調査の関係で、松山市が手配したカーフェリーで三津浜港から釣島を訪ねたことがあります。まだ地域史研究家として駆け出しの27~28歳でしたから、灯台の価値や魅力を理解する知識を持ち合わせていませんでした。その時は公募で集まった大勢の市民もいましたので、記録写真を撮って、素人目線で楽しんだように思います。それが今回は有識者としての同行ですので、気づいた点や今後の釣島灯台の活用法について言及する必要性を感じております。
[釣島灯台と旧官舎]
そもそも釣島はどこにあるのか? 高浜港や松山観光港からの視点では、興居島(ごごしま)背後の鷲ヶ巣(わしがす)地区沖合の周囲3㎞弱の小さな島で、かつて興居島村(昭和29年に松山市に編入合併)に属しました。これが海上の視点になると伊予灘と安芸灘を結ぶ航路の要所にあって、興居島と野忽那島(のぐつなしま)との間にある航路を一望できる位置にあります。明治政府のお雇い外国人第1号のR.H.ブラントンが、明治初期に手がけた瀬戸内海航路の洋式灯台は8基あり、その8番目として明治6(1873)年6月15日に初点灯したのが釣島灯台なのです。この英国出身のブラントンは、明治元(1868)年に来日して同9(1876)年に帰国するまで30基の灯台建設などにかかわり、わが国の〝灯台の父〟とも称される偉人です。彼が設置にかかわった灯台の多くが、近年になって国の重要文化財に指定され、釣島灯台も令和6(2024)年1月に重要文化財となったばかりです。
その文化財としての価値を考えるとき、〝洋式〟という言葉がポイントになってきます。洋風だと、西予市宇和町の開明学校のような西洋に似せた擬洋風や和洋折衷の建築となります。洋式は西洋建築そのもので、日本で製造できない建築資材(灯光器・ガラス)はブラントンの母国である英国から輸入されました。つまり、愛媛県にあって最初の洋式建築が釣島灯台であり、今も現役で使用されているところに希少価値を感じます(初点灯の年月日を刻印した灯台記念額には、英語と日本語の表記を併記)。
[英語&日本語表記の灯台記念額]
従来の和式の灯明台では光達距離が短く、開港場に寄港する欧米各国の船は航海の安全に不安に感じました。そのため、各国は開港後に洋式灯台の設置を江戸幕府へ要望し、フランスの協力で明治になって江戸湾周辺に4つの洋式灯台が設置されました。その最初に着工した観音埼灯台の起工日が11月1日であることから、わが国ではその日を灯台記念日としているのです(4灯台のうち、品川灯台だけが愛知県犬山市の明治村へ移築保存されてモニュメントとして現存)。幕府瓦解後は、洋式の灯台建設は明治政府に継承され、この設置にはイギリスが協力することになります。
英国政府はスコットランドのスティーブンソン兄弟の会社に依頼し、そこから送られてくる仕様書に従って来日したブラントンは灯台建設に従事しています。彼が手がけた洋式灯台が、灯籠がドーム型で灯塔が上にいくほどしぼられ、灯塔足元に扇形の付属舎をともなうスコットランドの灯台の様式であったのはそのためです。
[灯台付属舎の展示パネル]
日本人にとって馴染みのある灯台のフォルムは、スコットランド調ということになります。釣島灯台もその特徴を伝えていて、同時期にブラントンが手がけた備讃瀬戸にある鍋島灯台(坂出市与島町)と形状はそっくりです。兄弟の灯台がいるということを知っておいてください。しかし、マニアな見方をすると、外観は同じでも、釣島灯台の付属舎には暖炉があって、鍋島灯台には暖炉がありません。
[灯台付属舎の暖炉]
釣島灯台の吏員退息所(りいんたいそくしょ)にはベランダが付属しませんが、鍋島灯台のそれには長崎グラバー邸のようなベランダが付属しているのです。吏員退息所は官舎とも称され(以下、官舎)、灯台職員(灯台守)がそこで業務や寝食をする建物をいいます。
[灯台の旧官舎]
鍋島灯台の旧官舎は、高松市屋島の四国村ミウゼアム(四国民家博物館)に移築保存されていて、釣島との違いを楽しむことができます。そこには、明治36(1903)年4月10日初点灯のクダコ島灯台(松山市宇和間)の旧官舎も移築保存されています。クダコ島は怒和島(ぬわしま)と中島本島との間にある周囲1.8㎞の無人島で、クダコ島灯台も明治期の現役灯台となりますので、近代交通遺産の視点からも貴重な文化財です。
釣島灯台の灯台・旧官舎に用いられた石材や工事の様子について補足しておきます。灯台も官舎も構造は花崗岩の整形された切石を積み重ねた石造でした。それらの建築には1年8か月の工期を要したようで、当初は来島海峡に洋式灯台を設置する案もあったようですが、ブラントン自らが現地を訪ねて釣島の地を選んだようです。巨費を投じて造られる灯台は、優先順位を決めて必要とされる航路や港、暗礁などに設置されていきます。工事期間中は、実際に英国人が工務監督となり、日本人の人夫を使っています。多い時は300人ほどが作業をしていたようで、飲食や遊興の店が仮設されて賑わったようです。工事の様子を想像すると、まずは海抜約50メートル地点の灯台・官舎・倉庫の用地を平坦に削平し、そこへ多量の石材・木材を運搬する通路を設ける必要が生じてきます。レールを敷いてリフト(巻上げ機)を使用したようで、完成間もない時期の古写真を見ると、山肌に一直線に伸びた道やヘアピンカーブに折れた道があり、それらは運搬用に設けた通路と思われます。梁や柱、建具などの材木は郡中(伊予市)や長浜(大洲市)から調達され、島にあった檜の巨木も用いたようです。飲料水に苦労したようで、最寄りの興居島・鷲ヶ巣集落の井戸から水を運んだようです。この井戸は〝灯台井戸〟と称されて長年重宝され、今では使われていません。
石材は、山口県の浮島(うかしま)・徳山、広島県の倉橋島の花崗岩を用いたことが分かっています。灯台は表面を白く塗っているため分かりませんが、旧官舎の壁には3種類の石がモザイクのように組み合わさって個性を放っています。青みがかっているのが徳山産で、赤味を帯びているのが倉橋島産でしょう。沿岸部で切り出したものを船で輸送したと考えられます。国会議事堂が倉橋島の花崗岩を使用していることから、色合いを見て気づくことができます。なぜ、一か所の石材産地で統一しなかったのか分かりませんが、筆者が3度目の訪問で感動したのは石材の種類でした。石造灯台ですから、もっと石の産地や材質にこだわってもいいかと思います。一般に、灯台の石材は地元で豊富に採れる石を採用します。このため瀬戸内海沿岸では花崗岩が多くなってきます。来島海峡の中渡島灯台(今治市なかとしま、明治33年)は大島石、備讃瀬戸の男木島灯台(高松市おぎしま、明治28年)は庵治石(あじいし)で、ともに地元産の花崗岩の銘石を用いているのです。釣島は安山岩の地質で、実際に安山岩を採石した時期もありました。島内の柑橘畑の石垣には安山岩が用いられています。安山岩は柱状節理で割れやすいため、灯台建築の石材としては敬遠したものと思われます。
[旧官舎と安山岩の石垣]
それ以外に感じた魅力や今後の活用法については、②で紹介したいと思います。
【②につづく】