レポート
2022.12.18

ゆめしま海道をゆく②

ゆめしま海道をゆく②

 

まだ完成から半年余りしかたっていない岩城島(2022年3月開通)は、路面の舗装もきれいで、橋長916mの斜張橋の桁部分からは岩城島北部の造船所群やその背後にある広島県生口島(いくちしま)を望むことができました。眺めがいいのは、大型船の航行を見越して海面から橋桁までの高さを45.5mに設定したからです。

⑧斜張橋の岩城橋

(斜張橋の岩城橋)

そこから生名島(旧生名村)へ降りて生名橋へ向かうのですが、途中で因島土生町(尾道市)の造船所群に接岸する大型船や弓削島の石灰岩採石場の山肌が目に飛び込んできます。島には信号もなく、とても静かで、青い海と空、緑の多島美に囲まれて時間が止まったような感覚に浸ることができます。

⑨もうすぐで生名橋!

(もうすぐで生名橋!)

 

生名橋(2011年2月開通、橋長515m)と弓削大橋(1996年3月開通、橋長576m)は、あっという間に通り過ぎて弓削島へ降りるのですが、弓削港を目指す海岸通りには国立弓削商船高等専門学校の練習船「弓削丸」(240総㌧)が専用桟橋に繋(つな)がれています。

⑩弓削大橋と弓削丸

(弓削大橋と弓削丸)

 

筆者は20歳代のころに2度、弓削丸の洋上講座(1泊2日)に一般参加したことがあります。目的地へ移動する途中、同校教員から海にまつわる講義を受けるのですが、船内厨房で作った昼食のカレーライスや、寄港先の呉市や赤穂市の観光を懐かしく思い出しました。その受講生の中には、かつて生名島の塩田地主だったM氏もいて、数年後の調査で再会し、貴重な証言を得ることができました。弓削丸を通じた絆に感謝です。

さて、弓削港付近で筆者は昼食をとることになります。人気のお好み焼き店がサイクリストであふれ返っていたので、島民が集うAコープで総菜弁当を買い求め、新しい港務所そばのベンチで休憩をとることにしました。先の目的地を急ぐのがサイクリストの性分ですが、日差しに照らされた海を眺めていると、しばらくその場を離れられなくなりました。周囲には、潮待ち・風待ちならぬ午前中の部活を終えた乗船待ちの高校生が何人もいて、そこはまさに海の駅でした。桟橋には、救急車を載せるフェリー型高速救急艇(19総㌧)が2隻繋がれ、そこが改めて離島であることを実感できます。

⑪弓削港に係船された救急艇2隻

(弓削港に係船された救急艇2隻)

 

同町には大きな医療機関がなく、ゆめしま海道はあくまで町内の島どうしをつなぐ橋であって、つながらない有人島の魚島や高井神島もあるのです。上島町の島民の多くは生活圏(通勤・通院)が広島県尾道市で、過去に愛媛県知事が来島した際に「私が愛媛県知事の〇〇です」と自己紹介したという笑い話を、役場職員から聞いたことがあります。

せっかく弓削島へ来たので、2021(令和3)年10月に国指定史跡となった〝弓削島荘(ゆげしまのしょう)遺跡〟の一端に触れようと、松原海岸に鎮座する弓削神社を参拝。境内には、今上天皇ゆかりのクロマツがあり、それは1981(昭和56)年7月に陛下(当時、浩宮徳仁親王)が学習院大学在学中に歴史研究の一環で来島された際の記念樹です。

⑫浩宮親王殿下ご見学記念のマツ

(浩宮親王殿下ご見学記念のマツ)

 

この島は、鎌倉時代に東寺(教王護国寺、京都市)の荘園となり、塩を貢納したことが「東寺百合文書」に記されるなど〝塩の荘園〟として歴史家の間では広く知られています。当時は揚浜塩田だったようで、同文書は村上海賊(能島村上氏)の初見史料にもなっています。

松原海岸には、今も白砂青松の光景が広がり、沖の備後灘に浮かぶ百貫島(ひゃっかんしま)の灯台を遠望できました。百貫島灯台は、志賀直哉の小説『暗夜行路』にも登場する白亜の灯台で、1894(明治27)年5月15日初点灯した布刈瀬戸(三原瀬戸)8灯台の一つです。行政区は愛媛県上島町(旧弓削町)ですが、尾道海上保安部の管轄で、現在は無人島ながら郵便番号が存在するという不思議な島です(かつては灯台官舎が存在。弓削百貫の郵便番号は〒794-2503)。

その後、帰りの船便を気にしながら生名島まで戻り、立石(たていし)港を目指すことに。現地に着くと、すぐ対岸には土生港長崎桟橋がはっきりと見えています。ここには県境をまたぐ橋は架かっておらず、フェリーが渡船のように1時間3本のサイクルで往来し、海上航行時間はたった3分とのこと。

⑬立石港桟橋と生名フェリー

(立石港桟橋と生名フェリー)

 

10数年前とは違う新しい港務所と桟橋に驚きつつ、近くの「三秀園」と呼ばれる巨石(メンヒル)がシンボルの庭園を訪ねました。

s-⑭三秀園とメンヒル

(三秀園とメンヒル)

 

そこは、今東光の小説『悪名』に2千人の子分を従えた因島の女親分として登場する〝麻生イト〟が整備した観音霊場をともなう公園です。イトの財力の源は、土生地区が大阪鉄工所(後の日立造船)の操業で賑わっていた大正時代にあり、造船所の下請け業で麻生組を組織し、数百人に及ぶ男子工員を従えました。三秀園は、そのイトが地元に還元した社会インフラの一つであり、造船業の歴史が秘められているのです。

イトに思いを馳せながら、再び岩城橋を渡って岩城港へ戻りました。復路の航路は、夕焼けのなか、島々を巡りながら高速艇は今治を目指します。着くころには月も顔をのぞかせ、めったに昼寝をしない息子が、潮風を浴びながらのサイクリングに疲れたのか、いつの間にか船内で寝ていました。帰宅後、ゆめしま海道の魅力を得意気に語る息子の姿が印象的で、同時に船旅や離島の良さを再確認する一日となりました。

 

大成 経凡

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