レポート
2023.02.22

三津浜ぶらぶら歩き①

月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに書いていただく海にまつわるコラム。

今回は「三津浜ぶらぶら歩き」です。

 

松山市の三津浜地区をゆっくり散策するのは、実に20年ぶりのことでしょうか。

当時は愛媛県の近代化遺産調査事業(平成13~15年度)の調査員として、明治期・大正期・昭和初期に竣工した産業遺産や土木遺産を訪ね歩く仕事をしていました。

①大正末期・昭和初年頃の三津浜港

[大正末期・昭和初年頃の三津浜港]

 

特に印象に残った建物が、石崎汽船本社ビルと角田造船所第2工場の石垣ドライドックでした。この両物件はともに大正期の竣工で、松山藩御用商人の系譜をひく石崎家ゆかりの海事遺産なのです。

ドライドックは、石崎金久が合名会社石崎船渠(せんきょ)造船所設立後に構築したもので、子孫宅には大正5(1916)年撮影のドックの古写真が残されています(竣工年は諸説あり)。金久が大正12(1923)年に越智郡波止浜町(現、今治市)の波止浜船渠会社の経営権を握ると、拠点を三津浜から波止浜へと移したことで、港山に残された造船所は事業者の変遷がありました。実は、御用商人石崎家の家系は、宗家が近代において造船事業に、分家が旅客船事業にたずさわるということを、筆者は宗家ご子孫からの聴き取りで知りました。三津浜は、藩政時代は松山城下の外港で、伊予船籍の和船が多く寄港する物資の集散地・港町として栄えました。そこで藩からの信頼を得て廻船問屋を営んだのが石崎家だったのです。

さて、20年ぶりの散策で、筆者は少し浦島太郎のような気分にもなりました。古い町並みの風情は今も残され、近年は近代和風建築の商家がカフェやレストラン、ゲストハウスなどに再生され、地域活性化を図る住民によって移住の促進も見られます。例えば、国登録有形文化財にもなっている築110年の「旧鈴木邸」は、これを購入した女性オーナーによってカフェ&ゲストハウスにリノベーションされていました。

①旧鈴木邸(ゲストハウス&カフェ)

[旧鈴木邸(ゲストハウス&カフェ)]

一方、お目当ての石崎汽船本社ビルは、平成25(2013)年に本社機能が松山観光港ターミナル(松山市高浜町)へ移転されたため、現在は石崎汽船旧本社ビルとして観光マップに紹介されていました。

①石崎汽船旧本社ビル

[石崎汽船旧本社ビル]

大正13(1924)年12月竣工した本建物(2階建一部3階建)は、本県の企業社屋では鉄筋コンクリート造の先駆けとなる建造物で、国の登録有形文化財にもなっています。

この設計にかかわった木子七郎(きごしちろう)は、大阪を拠点に公共建築を手がけたことで知られていますが、本建物に先立つ大正11(1922)年11月に竣工した旧松山藩主家系の久松定謨伯爵(ひさまつさだことはくしゃく)の別邸「萬翠荘」(ばんすいそう)の設計にもかかわっています。さらに数年後には、昭和4(1929)年1月竣工の愛媛県庁舎(3階建一部4階建)の設計も手がけるなど、松山市内に現存する名建築を観光する際には要チェックの建築家といえます。これには、木子の妻が、松山出身の実業家・新田長次郎の長女であることが関係しているようです。

〈少し航路を逸脱しますが〉長次郎といえば、工業用ベルトの新田帯革製造所(現、ニッタ)の創業者で、松山高等商業学校(現、松山大学)の創立者でも知られます。長次郎の甥・新田仲太郎は、大正時代の大戦景気で船成金となり、愛媛県有数の多額納税者として叔父の長次郎に負けず、郷里のため新田中学校(現、新田高等学校)を創立しています。石崎汽船旧本社ビル前に佇むと、そうした先哲たちの事績や関連する建築が脳裏に浮かび上がってくるのです。

石崎汽船は、松山市に本社を置く創業150年を超える旅客船事業者です。

①興居島の伊予小富士と石崎汽船高速船

[興居島の伊予小富士と石崎汽船高速船]

現在は伊予鉄グループに属し、会社の代表取締役は石崎さんではありません。それでも、同家の屋号「〇に一」が大型フェリーのファンネルマークにも使用され、三津浜・高浜・松山観光港を拠点に、忽那諸島や中国(広島・呉)・九州(小倉)地方との海の航路便を有しています。

①小倉行きの大型フェリー(松山観光港)

[小倉行きの大型フェリー (松山観光港)]

歴史を遡ると、かつて芸予航路を得意エリアとした同社は、すでに明治23(1890)年に三津浜~広島宇品、同36(1903)年に三津浜~尾道で汽船による定期航路を開設しています。もうその頃には、私鉄の伊予鉄道会社が市街と港との連絡を図ろうと、三津浜町に三津駅(明治21年)、新浜村に高浜駅(同25年)を開業し、マッチ箱のような〝坊っちゃん列車〟(軽便鉄道)が黒煙を吐いて走っていました。官設鉄道の敷設が遅れた愛媛県にあって、県庁所在地の松山市に国鉄松山駅が開業したのは昭和2(1927)年4月のことでした。遅れた背景には、海上交通の便が良く、県民の鉄道への関心が低かったことも影響しているようです。

明治28(1895)年に、夏目漱石が旧制松山中学(現、松山東高等学校)の英語教師として来松した際は、神戸港発の某社汽船に乗船して三津浜港で下船しています。港湾整備が脆弱な同港では、本船は沖で錨を下ろし、艀船(はしけぶね)が陸上との連絡を図りました。その様子は小説『坊っちゃん』でも描写され、利便性の劣る三津浜港は、やがて高浜港が明治39(1906)年に開港すると、県都松山の海の玄関口としての立場を脅かされるようになります。これに対抗しようと、大正5年から同12年(1916~1923)にかけて町主導で築港整備事業を進め、国鉄三津浜駅の誘致を実現するなど巻き返しを図っています(当初の計画では、伊予和気駅の次駅は松山駅で、迂回路の三津浜駅は存在しなかった。このため、松山駅の開業が遅れた)。こうした流れの中で石崎汽船本社ビルは誕生しているのです。

①三津浜港の標柱

[三津浜港の標柱]

さらに昭和6(1931)年からは内港・外港の拡張工事が進み、埋め立て等で海岸線の形状も大きく変わっていきました。現在、三津浜港フェリーターミナル前には、かつての汽船乗り場にあった久保田回漕店の標柱「きせんのりば」が子規の句碑とともに建っています。同店は、艀船の運航に関わっていたようで、もともとこの標柱は現在の三津3丁目4付近にありました。あの正岡子規が明治28(1895)年10月に上京する際は、柳原極堂ら10名が見送りに来たようで、あいにく出港が遅れて見送り人は終列車で帰ってしまいました。その時の心境を詠んだ句「十一人 一人になりて 秋の暮」が、現在は句碑となっています。

ここで少し、三津浜港フェリーターミナルに立ち寄ってみることにしましょう。

<明日につづきます。>

イベント詳細

イベント名三津浜ぶらぶら歩き①
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