伊予北条の鹿島へゆく③
関ヶ原合戦後、鹿島城主の来島康親は伊予風早郡の領主を改易されますが、翌年の1601年9月に豊後森1万4千石で大名再興を果たしています。
(来島康親の肖像画(大分県玖珠町/安楽寺所蔵))
康親妻の養父・福島正則や大坂商人による、幕府重臣への働きかけが功を奏したようです。
与えられた所領は豊後の玖珠郡・日田郡・速見郡の3郡にまたがりました。その新天地で陣屋を置いた玖珠郡森(現在の大分県玖珠町森)は、JR久大線(延長140㎞)の中間地点に位置する九州山間の盆地で、近年は豊後森機関庫(国登録有形文化財)で有名な場所です。一見、〝陸にあがった河童〟の印象を受けますが、九州島の陸路では十字路のような結節点の地を拝領し、そこは陸の要衝地ともいえました。陣屋の背後にある角牟礼(つのむれ)城は戦国末期を乗り切った難攻不落の城で、織豊系城郭として国指定史跡となっています。入部後、来島氏が改修にかかわったと考えられますが、地元では瀬戸内の海賊大名にそんな築城技術はないだろうとの認識が大勢を占めます。その城の麓には、大三島の大山積神を勧請した末広神社(三島神社)があり、歴代藩主は大三祇神社本社へ初穂料をおさめ、絵馬を奉納するなど、父祖の地への思いを抱き続けました(絵馬は宝物館紫陽殿に常設展示されている)。
当初、来島康親に従った伊予の旧臣は31家とされ、柳原氏・二神氏などの風早郡に関係するものもいました。菩提寺の大通山安楽寺(曹洞宗)も北条から移っています。そして康親の子・森藩2代通春のときに姓を〝久留島〟へと改め、3代通清のときに弟へ1,500石を分知して石高は1万2,500石となります。5代・6代藩主は伏見奉行の幕府役職にも就任し、8代藩主の通嘉(みちひろ)は直木賞作家・白石一郎の短編小説「海賊たちの城」の主人公にも描かれ、彼が陣屋そばに築かせた日本庭園や神社境内は国指定名勝として現代に継承されております。現在、陣屋跡は住民憩いの場「三島公園」になっていて、そこには12代藩主の孫で〝日本のアンデルセン〟と称された久留島武彦(1874~1960)を顕彰する「久留島武彦記念館」やその精神を継承する児童文化施設「わらべの館」があります。
飛び地となった速見郡には、現在の日出町豊岡地区に参勤交代の拠点となる港町を設け、御座船を所有して海との関りを保持することができました。別府市の鶴見岳も森藩の所領で、麓集落では明礬(ミョウバン)製造を行って藩の特産物とし(現在は湯の花を製造)、照湯(てるゆ)温泉は8代通嘉が江戸後期に整備した大名浴場として今に伝わります(別府市指定史跡)。
(久留島家ゆかりの照湯温泉(別府市小倉))
湯のまち・別府にあって、唯一の大名浴場なのです。さらに、別府ロープウェイで有名な鶴見岳ですが、山頂(上宮)にもともとあった火男火売(ほのおほのめ)神社を中腹(中宮)と麓(下宮)へ下ろしてきたのも森藩主でした。同神社は〝別府八湯〟の湯の神として崇敬を受け、湯のまち・別府にとっては欠くことのできない場所です。対岸の伊予出身の大名が、ここを江戸時代に治めていたのは不思議な縁を感じます。他にも、一遍上人(河野氏の出自)ゆかりの白池地獄や上人が浜、別府観光の父・油屋熊八翁(宇和島出身)など、伊予と別府とは密接な関係があります。
では、最後に久留島武彦翁(大分県出身)の生涯を見ていくことにしましょう。彼は久留島家14代後継者の候補にありましたが、子爵家を継ぐことはありませんでした。その半生を青少年文化の普及に努め、口演(こうえん)童話の開拓やボーイスカウトの普及、わが国最初の児童劇団の創設(宇和島出身の挿絵画家・高畠華宵が所属)など、全国を行脚して青少年たちと交流しました。巧みな話術で聴衆をとりこにする才能をもち、〝こどもの日〟の提唱者でも知られています。その武彦は晩年、北条下難波(しもなんば)の来島家菩提寺・安楽山大通寺(曹洞宗)の越智廓明和尚と親しくなります。愛媛へ講演行脚で訪れた際は、大通寺へよく立ち寄り、寺の行く末を心配する廓明和尚に対し、保育園の開設を進め、自らその顧問となって寺再興に努めました(1949年、慈童愛育園を開園)。
(武彦〈中央〉と廓明和尚〈右隣〉(1947年、難波女塾で撮影))
武彦の喜寿の祝い(1950年)に招かれた廓明和尚は、その場に全国の童話界の重鎮に混じって、武彦の親友で音楽家の山田耕筰夫妻もいて、ずいぶん恐縮したそうです。また、自らの晋山式(1953年)に曹洞宗管長・高階瓏仙(ろうせん)禅師の御臨席を賜ることになりますが、これには武彦の口添えがあったようで(武彦と瓏仙は親友)、廓明は「自分のような田舎寺の和尚に、禅師様が直々にお出ましになることなどない」と述懐しています。武彦が亡くなった後は、娘婿で日本ボーイスカウト連盟5代総長の久留島秀三郎(同和鉱業㈱社長)が大通寺を支援したようです。秀三郎は、昭和36(1961)年の皇太子ご成婚記念事業〝こどもの国〟建設推進委員会の副会長でもありました(現、上皇夫妻のご成婚)。鹿島城主の子孫は、昭和になって父祖の地・伊予北条へ菩提寺再興で凱旋することになったのです。
今日、大通寺を訪ねると、来島兄弟の供養塔と伝わる墓所や武彦を顕彰する童話碑に目が行きます。
(伝、村上通総の供養塔(大通寺))
そこは河野氏ゆかりの寺院でもあったようで、鎌倉末期・南北朝期作と伝わる県・市指定文化財の仏像も所蔵しています。山門の寺号「安楽山」は高階禅師の揮毫(きごう)であり、武彦の勧めで開園した境内の慈童保育園では、毎日こどもたちの元気な声が響き渡ります。
(大通寺と慈童保育園(背景は腰折山))
河野氏後裔の海賊大名来島氏や久留島武彦に光を当てると、海の歴史を介した北条や鹿島の魅力も引き立つことでしょう。
大成 経凡
イベント名 | 伊予北条の鹿島へゆく③ |