レポート
2023.11.16

来島海峡の小島へゆく①

月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。

今回は、「来島海峡の小島へゆく」①です。

 

10月26日(木曜)午後、今治明徳短期大学の拙授業「地域交流演習」で今治市波止浜地区の沖にある小島(おしま)へ行きました。その名の通り、小島は周囲約3㎞の小さな島で、今も10名弱の住民がいます。ここは、島全体が日露戦争(1904~05)に備えて陸軍が築いた海岸要塞(ようさい)で、地元では〝小島砲台〟や〝芸予要塞〟の名称で呼ばれています。明治35(1902)年に竣工するも、実際の戦闘に使用されることはありませんでした。大正時代に廃止が決まり、昭和2(1927)年に地元の波止浜町に払い下げられ、以来、風光明媚な史跡公園として今にいたります。授業で小島へ行くのは3年連続で、秋から春にかけて訪ねたい今治市有数の観光スポットの一つであります。

 

私は、しまなみ海道が開通した平成11(1999)年以来、小島に〝海上の城 ラピュタ〟というキャッチコピーをつけております。それが、ジブリ映画の〝天空の城 ラピュタ〟をまねたネーミングだとすぐ分かりますが、標高100mの頂上付近の中部堡塁(砲台)跡は、今にも庭園ロボットが現れそうな光景なのです。まさにシュールそのもので、短時間の島滞在でも、見知らぬどこか遠くの場所を旅したかのような錯覚に陥ります。それを学生たちに味わって欲しいとの思いから、波止浜港と来島・小島・馬島を連絡する定期船「くるしま丸」を特別にチャーターすることにしました。学生43名に引率の教職員4名と取材記者1名が加わって総勢48名の小さな船旅の始まりです(往復のチャーター料金15,000円)

①小島へ向かうチャーター船(左が来島、右が小島)

[小島へ向かうチャーター船(左が来島、右が小島)]

 

 まず、波止浜港の桟橋からは、日本最大の海事都市・今治の象徴的存在である〝造船長屋〟の光景を目の当たりにすることができ、秋入学で来日したばかりのネパール人留学生だけでなく、ここを初めて訪れた教職員も驚きを隠せない様子でした。

①記念撮影するネパール人留学生(観測所跡)

[記念撮影するネパール人留学生(観測所跡)]

今治造船・浅川造船・檜垣造船・矢野造船・新来島どっくの造船会社5社が、狭い波止浜湾内に肩を寄せ合うように林立しているのです。

①波止浜港と造船所群

[波止浜港と造船所群]

全長150mを超える大型船が間近に浮かび、ブッロク工法で建造される鉄鋼船が丸見えの光景は、世界でここだけ珍景といえます。そして何より、海のない地域で育ったネパール・中国人留学生たちは、小さな19総㌧の定期船(旅客定員58名、船員2名)に乗るだけで気分爽快のようでした。小島まで10分の船旅は、本来であれば途中で村上海賊の海城「来島」(来島城跡)に寄港するのですが、この日はパス。小島に近づくと来島海峡第3大橋が見えてきます。もっと乗っていたい気持ちを抑えて、島へ上陸です。

 ちょうど潮が干いており、桟橋そばの護岸石垣と雁木(がんぎ)の全体像が見えていました。

①海岸の護岸石垣と雁木

[海岸の護岸石垣と雁木]

これも要塞の一部で、資材を陸揚げするための岸壁として整備されました。島には北部・中部・南部に3か所の砲台が設置され、それぞれが攻撃目標とする戦艦及びその位置に合わせて大砲の種類が違っていました。ここで紹介するのは、中部砲台(堡塁)にもともと6門置かれた28㎝榴弾砲(りゅうだんほう)です。

①28㎝榴弾砲の砲座跡(中部堡塁)

[28㎝榴弾砲の砲座跡(中部堡塁)]

当時の大砲としては最大級の飛距離約10㎞を誇り、一般には陸上の敵陣地の攻撃に用いられます。榴弾砲は砲身が短くて射角が高いのが特徴で、放物線を描きながら砲弾は飛んでいきます。28㎝は砲弾の直径の長さで、1発当たりの重量は約217㎏というから驚きです。当然、そのことは学生たちにクイズとして出題しました。その大砲レプリカが、小島の観光待合所そばにあります。

①28㎝榴弾砲レプリカ(後方は観光待合所)

[28㎝榴弾砲レプリカ(後方は観光待合所)]

これは、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(2009~11)のロケに使用されたもので、原寸大であります。撮影収録後に松山市へ譲渡されて、松山城ロープウェイ駅の展望テラスに設置されていましたが、野志松山市長のはからいで今治市への譲渡が決まり、平成25(2013)年春に移設されることになりました。

 では、そもそも陸上戦に用いられるはずの榴弾砲が、なぜ敵の艦隊攻撃に必要だったのか。当時はロシアのバルチック艦隊が豊後水道を北上してくることを想定し、広島湾や芸予海峡に要塞が築造されました。大型の鋼鉄船が隊列を組んで航行しようものなら、芸予海峡では、現在も国際航路である愛媛(伊予)側の来島海峡と広島(安芸)側の布刈瀬戸(めかりせと)に要塞を設置するのが常石。来島海峡は小島に、布刈瀬戸は大久野島(現、竹原市)に設置されることになり、両所はセットで〝芸予要塞〟と名付けられ、小島は別に〝来島要塞〟とも呼ばれました。当時の戦闘では飛行機による空からの攻撃がなかったことで、戦艦は甲板の上面は鉄板が薄く(または木製)、側面の鉄板を厚くして、被弾の衝撃に備えていました。そうした中で、放物線を描く榴弾砲の弾が甲板へ命中すると、艦は大きな損壊を受けることになります(場合によっては沈没)。しかし、これにはピタゴラスの定理を用いた緻密な計算が必要で、島の頂上観測所に測遠機が据えつけ、大角鼻(今治市波方町)あたりに基点の水尺(メートル棒)を設置していました。実際、要塞の備砲が完了すると試射訓練を行うことになり、大角鼻沖の千間磯(せんげんいそ)の後方に目印の小舟を浮かべたようです。連射の衝撃はすさまじく、〝波止浜の民家の障子がブルブル震えた〟と当時の海南新聞にも記されています。幸い、敵艦が瀬戸内海へ侵入することはなく、旅順要塞(現、大連市)の攻略に苦戦する第3軍司令官・乃木希典のもとへ、この28㎝砲は撤去されて移送されました。      

【②へつづく】

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イベント名来島海峡の小島へゆく①
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