大正期から昭和戦前に栄えた肱川河口の港町・長浜地区(現、大洲市長浜)だが、その一方で、舟運文化に影響をもたらす交通革命も見られた。明治36年(1903)には長浜-大洲間の県道が開通し、大正7年(1918)2月には長浜-大洲間(14.6㎞)・同9年5月の若宮分岐点-内子間(9.7㎞)の愛媛鉄道が開業している。
この愛媛鉄道は、夏目漱石の小説『坊っちゃん』に登場する〝マッチ箱のような汽車〟と同じ狭軌幅の軽便鉄道で、客車よりも貨車を多く連結して、肱川の水運に代わる役割を果たすようになっていく。昭和8年(1933)10月に国鉄に買収されて国鉄愛媛線となり、さらに利便性を増すため同10年(1935)10月に軌間を拡幅して予讃本線に編入された。このとき、一部区間はルート変更にともなう駅の新設・廃止・移転や線路の付替え工事なども実施され、八多喜(はたき)地区の山間ルートが県道沿いの山麓コースとなった。結果、廃線路には3つのトンネルが残され、中でも八多喜トンネルは入口に高さ制限2.6mの標識を立て、今も道路トンネルとして使われている。
[八多喜トンネルの現況]
通り抜けるには軽自動車がちょうどよく、軽便鉄道の気分にひたることができる。
話を肱川の舟運に戻そう。まだ長浜-大洲間に鉄道もなく道路整備もままならなかった時代のこと。長浜地区の河口には上流域の特産物(特に重量の荷)が川舟に載って集まり、木材の筏流しも盛んに行われていたという。そうした河港の名残が、肱川流域にはナゲと称される石積みの遺構として8か所確認できる。ナゲは治水の効果もあって、水流を緩やかにして堤防強化の働きも併せもつという。
最上流のナゲは河口から27.2㎞離れた右岸に位置し、大洲城や臥龍山荘(がりゅうさんそう)よりも上流の大洲市菅田(すげた)地区にある。最下流の大洲市白滝地区(旧長浜町)にある須合田(すごうだ)のナゲは河口から5.6㎞離れた右岸に位置し、この辺りまで満潮時は海水が遡上して舟運の拠点となっていた。
[昭和戦前の白滝地区加屋渡場付近(絵葉書より)]
かつて米揚場・石揚場・塩揚場と称されるナゲがあり、このうち1つが現存し、藩政時代には陸側に大洲藩の代官屋敷や塩蔵・米蔵などもあった。
観光客が訪ねやすいナゲは、「おおず赤煉瓦館」(明治34年竣工、旧大洲商業銀行)の対岸にある渡場ナゲで、河口から18.8㎞の右岸に位置する。石積みの長さは約40mあり、「おおず城下のお舟めぐり」遊覧船の肱北川原のりばとして使用されている。
[肱北川原のりばの渡場ナゲ]
この1時間ごと1日6便の定期運行船は、臥龍山荘や大洲城の袂など4か所の乗り場がある。渡し船の気分を味わいながら、臥龍山荘や大洲城天守を川面の屋形船から楽しむことができ、今年は7月16日から9月20日まで運行予定である(大洲市DMOのキタ・マネジメントが運営)。この期間中は、大洲城天守より少し下流の堰を調整して水嵩を増し、鵜飼いを楽しむこともできる(9月21日以降はコース変更)。
[おおず城下のお舟めぐり]
臥龍山荘は、大洲市屈指の観光地で、建物群は国の重要文化財に、庭園は国の名勝に指定されている。いつの時代に、誰によって、どんな富で築かれたのかが気になるところで、これは明治20・30年代に喜多郡地方が全国有数の木蝋(もくろう)生産を誇ったことに起因する。大洲市新谷出身で、神戸を拠点に木蝋貿易で財をなした実業家・河内寅次郎が、余生を楽しむ別荘として明治30年(1897)頃から10年の構想と工期を費やして、肱川に臨む景勝地につくらせた。
[昭和戦前の肱川橋から大洲城跡の眺め(絵葉書より)]
また、昨年6月1日からは、同様に景観と建築を楽しめる旧松井家住宅「盤泉荘」(国登録有形文化財)が一般公開となった。
[盤泉荘のバルコニーからの眺め]
こちらは、フィリピンを拠点に貿易商などで財をなした大洲市出身の松井兄弟の別荘で、兄傳三郎が計画し、その遺志を弟國五郎が継承して大正15年(1926)に完成している。肱川は舟運文化を通じて瀬戸内海とつながり、時流に乗ってそこから海外交易で富を得る実業家たちもいたようだ。
今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡
イベント名 | 肱川の舟運文化 |