伯方塩業創業50周年祭へゆく④

2024-3-26
海と日本PROJECT in えひめ

月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。

今回は、先月の続きの「伯方塩業創業50年祭へゆく」④です。

 

平成9(1997)年の塩専売制廃止によって、わが国では、誰もが塩を製造・販売できる時代が到来しました。雨後の竹の子のように、にわか塩メーカーが続々と誕生し、中には怪しげな商品を見かけるようになりました。でお伝えした「羅臼(らうす)の塩」のように、表のパッケージにはそう記されていながら、裏のパッケージには原産国が〝豪州〟と記され、消費者に誤解と混乱を与える恐れを紹介しました。表のキャッチコピーに目が留まり、なかなか裏の表示までチェックする消費者は少ないのではないでしょうか。

 そんな中、平成16(2004)年7月の新聞紙面に、伯方塩業を含む塩の製造・販売会社9社が、公正取引委員会から景品表示法違反(優良誤認)の恐れがあるとして、表示内容の改善を求める警告を受けたという記事が掲載されました。《外国産の塩を原料としながら、包装に国産と受け取られる内容を表示すること》は、消費者から誤解を招く恐れがあったのです。共同通信による配信のため、愛媛新聞では一面だったように記憶いたしております。〝トリビアの泉〟の放送から1年もたたないタイミングのため、大きな反響がありました。ただし、伯方塩業にも言い分があって、一部の商品のパッケージでは、容量が少なくて原産国を記載するスペースがなく、それ以外のものには原産国は表示されていたのです。そもそも〝伯方の塩〟は商品名(登録商標)であって、伯方島の塩田を守りたいという消費者運動を由来とするネーミングであるのに、創業から30年も時間がたてば、そんな由来さえもが消費者の記憶からは消え去っていたのです。これを見て筆者は、「こりゃまずいな。不買運動が起きかねない。丸本社長、試練だなぁ」と心配しました。同社は、紙面の伝え方にも問題があると抗議したようで、訂正欄が後日小さく載りました。ただ、それを見た読者がどれほどいたものか、一面記事のインパクトをくつがえすことはなかったように思います。

伯方塩業に対する注目度の高さにはわけがあって、それは日本の塩メーカーで初めてテレビCMを採用したことです。イオン交換膜工場を有する製塩メーカーは、ある意味、親方日の丸で専売制の保護のもとにありました。伯方塩業は、外国産の塩田塩を食用に再生させるまでは良かったのですが、イメージ戦略や販路開拓など、自社努力で商品のPRに努める必要があったのです。そして、広告代理店を通じて作曲家・浦田博信氏との邂逅があり、サウンドロゴ(音商標)「は・か・た・の・し・お」は誕生します。これを、浦田氏の友人・塩谷信広氏が力強く唄いあげました。筆者は、そのテレビCMを平成4(1992)年当時、進学先・仙台市のテレビ放送で知ります。まさか全国区だったとは…というのが率直な感想で、東北出身の友人らも〝伯方の塩〟のことは知っていました。ただ、それが愛媛の食品メーカーとまでは知らなかったようで(福岡市の博多と混乱)、料理人の神田川俊郎氏を起用することで食の安全性を担保しているように感じました。以来、愛媛のお国自慢をする際、みかん・坊っちゃん・道後温泉・高校野球(松商・宇和島東・今治西)以外に、筆者は〝伯方の塩〟を加えることにしました。

産地偽装を疑う報道の背景には、テレビCMを通じて知名度の高い伯方塩業をたたけば、消費者の関心が高まるという側面もあったように思います。しかし報道の奥に潜んでいた課題は、各製塩メーカーが消費者に対して誤解を招きかねない表示を使用していたことにありました。そこで、業界有志12社により食用塩公正競争規約作成準備会を発足させ、月1回の会合を重ねて具体案の合意に向けて協議が続けられていきます。そして平成18(2006)年4月には業界全体に呼びかけて、76社の会員が参加する「食用塩公正取引協議会準備会」を発足させ、関係省庁とも協議を重ねていくことになりました。そうした経緯は、食用塩公正取引協議会のWEBサイトに詳しいのでこの場では割愛しますが、表示のあり方や用語の定義をめぐっては、「自然塩」や「天然塩」という用語も不当表示かどうか検討の対象となりました。この準備会で、伯方塩業の丸本社長は会長に就任し、日本塩工業会理事の尾方昇氏が副会長を務めることになりました。その成果もあって、適正な表示のものには、包装に「しお 公正マーク」が印字されることになりました。

しお 公正マーク

[しお 公正マーク]

その印字がある商品を見れば、製造方法がひと目で分かり、原材料名と工程がしっかり記載されているのです(掲載写真は、日本海水・味の素・伯方塩業の表示)。

日本海水「食塩」(1㎏)の表示

[日本海水「食塩」(1㎏)の表示]

 

味の素「アジシオ」(100g)の表示

[味の素「アジシオ」(100g)の表示]

「伯方の塩 粗塩」(500g)の表示

[「伯方の塩 粗塩」(500g)の表示]

 

 

実は、その準備会発足直前に、筆者は伯方塩業の丸本社長とナイカイ塩業株式会社(以下、ナイカイ塩業)の製塩工場がある岡山県玉野市山田地区に出向いています。手帳をめくると、平成18年4月15日(土曜)に筆者は午前6時51分にJR今治駅下車の丸本社長を自家用車でピックアップし、瀬戸大橋経由で9時50分に山田地区の塩田跡地「東野﨑浜」に到着。同所で開催される第3回植樹祭に参加していました。この植樹祭は、ナイカイ塩業の創業175周年の記念事業も兼ねていて、塩竈神社周辺の塩田跡地を住民憩いの場の〝鎮守の森〟によみがえらせる取り組みでした。平成16(2004)年3月から始まり、毎年1回、地元住民が集って瀬戸内の風土にあった樹種の苗木を植えるというものでした。筆者は、山田地区に現存する塩田遺構や旧専売庁舎などの近代産業遺産の活用に興味があって、調査研究も兼ねて第1回植樹祭から参加していました。植樹祭の経費はナイカイグループでまかなわれ、参加者には模擬店の昼食サービスもありました。この植樹祭の経緯等は、日本塩業研究会の論文集『日本塩業の研究』第31集(平成21年3月発行)の中で、拙稿「製塩業遺産を活かした地域づくり~児島半島・東野﨑浜の事例~」として発表しています。

ナイカイ塩業は、野﨑武左衛門に始まる日本で最も長い歴史を誇る製塩メーカーで、東野﨑浜は江戸後期と幕末期に開拓された90町歩余りに及ぶ広大な入浜塩田でした。同社は塩田廃止後も塩づくりを中心にナイカイグループとして地域振興に大きく貢献していて、植樹祭には地域とともに歩んできたことへの感謝の意味が込められていました。その点を、商売敵でありながらも高く評価していた丸本社長は、ぜひとも植樹祭に参加してみたいと筆者に連絡があったのです。びっくりしたのはナイカイ塩業の関係者でした。商売敵の〝あの伯方塩業の丸本社長が来ている!〟〝来賓として招待したわけでもないのに、一体どういういきさつでやってきたのか〟しばし詮索は続いたようですが、最終的には「敵に塩を送る」ということわざもあるように、ここで追い返すようなことがあっては、かえって自社のイメージを悪くしてしまうという判断にいたりました。ヤキモキしたのは一部の社員と筆者だけで、両社長はあまりそうでもなかったようです。植樹する丸本社長に野﨑泰彦社長が歩み寄り、談笑する光景に筆者はホッとしました。丸本社長は長靴をはき、農家の倅さながらに土いじりを楽しんでいる様子でした。今ふり返ると、敵の懐へ飛び込み、一緒になって「食用塩公正取引協議会準備会」を成功に導きたいという強い思いがあったようです。野﨑社長につづいて、第1回会合に出席予定の同社重役も、丸本社長と談笑する姿が見られました。この植樹会は、日本の食用塩業界にとっても大きな意味があったように感じております。

 帰りの車中で丸本社長は、ナイカイ塩業の取り組みを高く評価し、「企業が金儲けだけに走るようになってはダメ!今日は、いいものを見させてもらった」と筆者に語り、満足な表情を浮かべていました。そして、「わが社としても、発祥の地である伯方島の事務所(昭和16年竣工の旧専売庁舎)を、老朽化したからといって壊すようなことがあってはいけない。登記簿上は、あの場所が自分たちにとっては本店(本社)である。創業時の気持ちを忘れていけない」と自戒の念を述べていました。その後、筆者が丸本社長(会長?)と再会を果たすのは、筆者の結婚披露宴(平成21年6月)の時で、来賓の一人としてご挨拶をいただきました。80名ほどの出席者には、伯方の塩セットを引出物の一つとしてお持ち帰りいただいたしだいです。

その後、伯方塩業では、創業時の悲願の一つであった〝流下式塩田の復活〟を、同社大三島工場(現、今治市大三島町台)で平成22(2010)年10月に達成することになります。その記念式典で丸本会長は、「40年前の技術力を受け継ぐつなぎ目の施設ができた。流下式枝条架塩田を守りたい、という思いが私たちの塩づくりの原点。運動した人たちとともに塩田復活を喜びたい」と挨拶しています(朝日新聞・愛媛版、10月29日付参照)。

朝日新聞 愛媛版(2010年10月29日付) (1)

[朝日新聞 愛媛版(2010年10月29日付)]

そして3年余りがたった平成26(2014)年5月には、この流下式塩田でつくられた鹹水をもとに、「されど塩」という商品が発売されています。伯方塩業の商品にあって、100%瀬戸内海の海水をもとにした食塩が誕生したのです。現在、大三島工場の館内施設見学をすると、3種類の塩サンプル「粗塩」(20g)・「焼塩」(20g)・「フルール・ド・セル」(10g)を入館者はいただくことができます。

伯方の塩サンプル(左から20g・20g・10g)

[伯方の塩サンプル(左から20g・20g・10g)]

屋外施設の流下式塩田についても、見学者には「されど塩」のサンプルをいただくことができます。

伯方塩業「されど塩」サンプル

[伯方塩業「されど塩」サンプル]

両施設ともに見学無料で、食塩への関心を深めることができます。

昨年夏、授業で伯方塩業の大三島工場を見学

[昨年夏、授業で伯方塩業の大三島工場を見学]

 

そんなある日、筆者の自宅に喪中ハガキが届き、丸本会長が亡くなられたことを知ります。実は、その亡くなる少し前にお電話をいただいたのですが、屈託のない、いつもの笑い声が聞こえてきました。ただ、どうして電話をかけてきたのか、その時は分かりませんでした。当時、筆者は家業の海運会社を解散して流浪の身(進学塾講師)にありましたが、〝真面目にコツコツ励んでいれば、必ずや報われる〟という趣旨の励ましの言葉だったように思います。今思えば、筆者の身を心配して、託した遺言のようにも感じております。筆者の〝塩へのコダワリ〟は、その後、令和2(2020)年1月に拙著『伊予が生んだ実業界の巨人 八木龜三郎』(創風社出版)が第35回愛媛出版文化賞大賞を受賞することで実を結びます。塩の海上輸送を足がかりに成功した実業家の生涯を、膨大な資料を紐解く中で評伝にまとめ上げました。あきらめず、続けてきて良かったと思い、丸本会長はじめとする塩を縁にお世話いただいた方々の顔が脳裏に浮かびました。

伯方塩業創業50周年祭の場に丸本会長の姿はありませんでした。流下式塩田の再現までが、半生をかけた大きな目標だったことと思います。筆者にとっては、自身の祖父・曾祖父が塩田用石炭の海上輸送に、父が専売公社・塩事業センターの塩の海上輸送にかかわってきたことを思うと、自身と同じ年齢を重ねた地元製塩メーカーの節目に立ち会うことができ、とても感慨深いものを感じました。そして、昨年12月に筆者が勤務する今治明徳短期大学の授業「地域交流演習」に、伯方塩業㈱松山本社プロモーション部から出前講座をいただいたこと、本学オープンキャンパス(今年3月以降)に参加する高校生に塩のサンプルをご協賛いただいたことに、塩のご縁を感じているしだいです。本学には、調理師や栄養士の資格取得を目指す学生もおり、〝今治を学びのフィールド〟として塩への関心を持ち続けて欲しいと願います。

                                【おわり】

 

イベント名伯方塩業創業50周年祭へゆく④
  • 「伯方塩業創業50周年祭へゆく④」
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