伯方塩業創業50年祭へゆく②

2024-1-17
海と日本PROJECT in えひめ

月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに寄稿していただく海にまつわるコラム。

今回は、「伯方塩業創業50年祭へゆく」②です。

 

越智郡島しょ部から塩田が消えるきっかけになったのは、〝塩業近代化臨時措置法〟という法律のもと、国内塩業の合理化が図られたためです。流下式塩田よりも、イオン交換膜製塩工場の方がはるかに生産性も高く、塩価を抑えることができました。全国に10工場にも満たないそれらの工場で、従前の生産量を十分に賄えてしまうのです。赤穂海水工業㈱のデータによると、イオン交換膜製塩工場の1haの用地があれば年間15万㌧の塩生産が可能となり、これが入浜塩田だと1ha年産124㌧(昭和14年当時)・流下式は年産201㌧(昭和37年当時)というものでした。この数値だけを見れば、当然のように塩田不要論は巻き起こり、専売制をしく国の財政負担を考えれば答えは自ずと決まりました。

しかし、塩田廃止を良しとせず、松山市の保健婦・菅本フジ子女史らが塩田の食塩を残して欲しいと消費者運動を起こします。当時、イオン交換製塩法を食用塩とする国はなく、同製法は工業塩向きであるため、食の安全性に疑念がもたれたのです。海水に含まれるNaClから塩分だけを抜き取るため、塩のうまみを引き出すニガリ分が失われてしまうのです。このムーブメントは愛媛出身の国会議員にも働きかけて政府への請願となり、最終的に5万人近い署名を集めることになりました。この結果、昭和47(1972)年7月に〝再生塩ならつくってもよい〟という口約束が専売公社から得られ、丸本氏をはじめとするメンバーは会社設立へ向けた準備を進め、同48年8月に伯方塩業株式会社は誕生します。なお、ここでいう再生塩とは、海岸から輸入した天日結晶塩のことで、メキシコやオーストラリアのものを想定していました。輸入したその原塩は、不純物を取り除くため真水(海水)で溶解し、再び窯焚きを行って精製するというものでした。専売公社が認めた輸入量は年間2,000㌧で、自社努力でこれを販売しなければならないというハードルが待っていました。

たとえ熱意はあっても、塩つくりに関しては所詮素人の集団です。そんなメンバーに、塩田塩存続の頃から理解を示し、塩専売当局への折衝などで支援の手を差し伸べてくれたのが、伯方塩業組合最後の理事長の馬越伊右衛門でした。会社の発足にあたっては、元組合関係者のニガリ工場跡の貸与を受けることができ、生産技術の指導も受けました。そして昭和48(1973)年6月に再生塩の販売が正式に許可されると、11月には廃業になっていた同組合の平釜を使って最初の塩がつくられました。〝伯方の塩〟の誕生です! 50周年祭が開かれた〝11月〟には特別な意味が込められていたということになります。正式な製造は翌12月からで、昭和49(1974)年1月から販売をスタートさせています。そして塩づくりが軌道に乗ると、伯方塩業は塩業組合の工場隣にあった旧専売公社の跡地・建物を購入し、ここを事務所・工場としました。

伯方塩業伯方本社の事務所(旧専売庁舎)

(伯方塩業伯方本社の事務所(旧専売庁舎))

こうして、昭和16(1941)年に竣工した旧専売庁舎は本社事務所・商品倉庫となり、塩収納倉庫が溶解タンク室・包装室・原塩収納室に、官舎は社宅へと変わりました。

旧専売倉庫を原塩倉庫に転用(現存せず)

(旧専売倉庫を原塩倉庫に転用(現存せず))

後に同社の社長となる丸本氏は社宅住まいとなって、子供たちはみんなここで育ったようです。私が20歳代で地域史家の駆けだしだった頃、丸本氏は同社の専務として、会社設立時の苦労を最もよく知る一人として同社の看板を背負って活躍しているように映りました。本社事務所や各倉庫については、昭和戦前の建物であることから、平成13・14年度の県近代化遺産等調査では調査対象の物件となりました。とりわけ、赤煉瓦造平屋建ての文書庫は、他地域の塩田産地(玉野市山田地区など)でも同様の建物を見かけましたが、大蔵省管轄の施設であったため、公文書の保管(耐火目的)で設けられたようです。

伯方本社事務所に現存する文書庫

(伯方本社事務所に現存する文書庫)

一方、塩田を残すことはかないませんでした。その後、越智郡島しょ部の塩田跡地はどうなったのでしょう。第3次塩業整備(昭和34年)で廃止となった波止浜は、造船団地や住宅団地、新たな商店街やゴルフ場・自動車教習所場などに姿を変えていき、その多くは周辺地域の丘陵を削ってその残土で埋め立てられました。内堀のゴルフ場と教習場は、もとの塩田地場を残して転用が図られた珍しい例です。多喜浜については、新居浜市が工業団地として再整備を行い、まさにわが国の高度経済成長期に合わせた開発事業を展開していきました。当時、愛媛県松前町出身で来島どっく㈱の社長だった坪内寿夫氏も、政府関係者へ塩田を廃止して跡地を埋め立て、工業化を図ることを説いていたようです。しかし、第4次塩業整備(昭和46)まで塩田だった地域の中には、廃止後の代替事業がすぐ見つからないから最後まで残っていたものも多かったように思います。

現在の今治市および上島町の地域にあった塩田については、昭和46(1971)年の北木水産㈱による伯方島北浦浜を皮切りに、入浜塩田跡の凹地へ海水を導き、クルマエビの養殖場とするための転換工事が進められていきました。

クルマエビの養殖場だった伯方島古江浜(2002年夏撮影)

(クルマエビの養殖場だった伯方島古江浜(2002年夏撮影))

北木水産の赤瀬氏は最盛時に伯方島に10万㎡の養殖場を有しましたが、同島には古江浜を中心に最盛時に17万㎡の養殖場を有する藤田水産㈱もありました。ともに会社代表は浜旦那の系譜を引きますが、筆者が製塩業遺産の調査をしていた頃(平成15年)に藤田水産は休業中で、藤田社長に訊けば、「愛媛県が認可している海砂採取の影響で沖の生態環境が変わり、そのことが主要因となってエビに病気が出始めた」とのことでした。北木水産もそれからしばらくして廃業したように記憶しております。海砂採取の因果関係がはっきりしないまま、やがて海砂採取も禁止となりました。現在でも、上島町生名の恵生(えなま)浜でクルマエビの養殖が続いております。

現在の伯方島瀬戸浜(一部は養殖場)

(現在の伯方島瀬戸浜(一部は養殖場))

 平成15(2003)年度の調査を終えた筆者は、報告書に載せることのできなかった愛媛の塩業史を記録の残そうと、『しまなみ海道の近代化遺産』(創風社出版、2005)を出版しました。ちょうど、平成17(2005)年1月に12市町村の広域合併による今治市が誕生しようとするタイミングで、旧市町村名で表記したいという思いがあったのです。そしてその出版を契機に、筆者は陽の目を見ない在野の歴史愛好家から足を洗おうとしていました。年齢も30歳を越え、そろそろ正業に就いて落ち着きたいという思いがありました。たまたま家業の海運会社が、専売公社の流れをくむ塩事業センターの塩を輸送する仕事に関わっていたことから、社長である父にお願いして塩を輸送する貨物船に当直部員として乗り込むことになりました。専売公社ということは、イオン交換膜法の塩を統括するところですから、伯方塩業とはライバル関係にあります。処女航海は平成16(2004)年秋(小名浜港から乗船)のことで、私の人生が大きく変わろうとしていました。    

大成経凡  

【来月に続きます。】

イベント名伯方塩業創業50年祭へゆく②
  • 「伯方塩業創業50年祭へゆく②」
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