佐田岬半島をゆく①

2023-4-1
海と日本PROJECT in えひめ

月に1度、今治明徳短期大学地域連携センター長・大成経凡さんに書いていただく海にまつわるコラム。

今回は「佐田岬半島をゆく」です。

 

3月2日(木曜)、地元住民さえもが「今日は特別!」と語る強風・低温の極寒の中を、海と日本プロジェクトinえひめ主催の〝佐田岬半島灯台モニターツアー〟に参加しました。このツアーに先立って、昨年夏頃から伊方町内に所在する10基の灯台の基礎調査がなされ、佐田岬灯台以外の灯台にも光を当てつつ、滞在型に結びつけるための様々な実証実験がなされていました。いわば、その総括となるツアーで、10名弱のモニターの一人に筆者もお加えいただき、充実の一日となりました。

①佐田岬灯台の擬人キャラ(伊方町役場)

[佐田岬灯台の擬人キャラ(伊方町役場)]

9時半に伊方町役場に集合し、最初に目指したのは伊方湾口の小さな岬・室鼻(むろのはな)にある室ノ鼻灯台で、ツアー一行を載せたハイエースは間もなくして灯台下の室鼻公園に駐車しました。この灯台は、昭和48(1973)年1月9日に初点灯した白亜の鉄筋コンクリート造(以下、RC造)灯台で、高さは11mと小ぶりです。人間に例えると50歳で、筆者もあと数か月で同年齢ということから親近感を覚えました。

灯台の愛好者や有識者の間では、お雇い外国人の英国技師ブラントンが手がけた灯台(本県では明治6年初点灯の釣島灯台)など、明治期の石造灯台が人気です。山口県下関市の角島(つのしま)灯台〈明治9年初点灯、ブラントン設計〉などは、塔にのぼれる国指定重要文化財の灯台として、地元の観光振興に寄与しています。筆者の友人で『燈光』(公益社団法人燈光会)に寄稿する機会の多い灯台研究生(ペンネーム)も、今は明治期の灯台を中心に、海保資料や地元資料、聞き取りや踏査を通じて、その知られざる設置背景や建築上の魅力など、新たな史実を浮かびあがらせているところです。

そういう中にあって、大正7(1918)年4月1日初点灯のRC造白色八角形・佐田岬灯台が、平成29(2017)年3月に国登録有形文化財に答申された意義は大きいと思います。明治期の石造灯台に代わって、今後は近代竣工のRC造灯台にも関心の目が向けられていくことでしょう。県内では越智郡上島町の高井神島灯台(大正10年初点灯、八角形)や今治市馬島のウズ鼻灯台(昭和13年初点灯、円形)らが、佐田岬灯台につづくコンクリート造の灯台として今後は注目されていくのかも知れません。

わが国最初のRC造灯台は、明治45(1912)年3月1日初点灯した静岡県静岡市の三保半島に所在する清水灯台です。灯台研究生の寄稿「明治の灯台の話(71) 清水灯台(前編)」(『燈光』第67巻・第5号/2022年9月号)によれば、この背景には、清水港が明治32(1899)年に開港場となり、茶・みかんの輸出の増えたことが要因にあるようです。清水港が、それ以前の茶の積出1位だった横浜港にとって変わり、地元産業界から港湾整備の一環で灯台設置を求める声が高まりました。これに対応するため、廉価で早期に建設可能なRC造灯台が誕生することになったのです。

当時の鉄筋コンクリート造の建築といえば、大きな公共建築や国家事業の土木建造物、軍の要塞などに用いられた印象を受け、とても高価で希少なイメージを抱きます。わが国でRC造建築が増える最大の要因は、大正12(1923)年9月1に起きた関東大震災が背景にあり、首都東京近郊は甚大な被害を受けました。木造や煉瓦造の建築物が、強い揺れや延焼火災に弱いという課題を突き付けられたのです。佐田岬灯台が、それ以前からRC造であったということには、先進性や地域性で特別な理由があったということになります。今回のツアーでは、日没後の点灯で約1分間見られるエメラルドの光源に注目し、滞在時間を増やす一つの方策として参加者はそのエメラルドタイムを楽しむことになりました。

①エメラルドタイムの佐田岬灯台

[エメラルドタイムの佐田岬灯台]

灯台を楽しむためには予備知識が求められます。室ノ鼻灯台では、そうした灯台観光のイロハを参加者全員で共有しました。

①伊方湾口に立つ室ノ鼻灯台

[伊方湾口に立つ室ノ鼻灯台]

例えば、建造物でいうところの定礎石にあたる「初点プレート」(記念額)が見所の一つです。

①佐田岬灯台の初点プレート

[佐田岬灯台の初点プレート]

灯台の入口扉の上に設置され、昭和戦前であれば、現在とは逆で右から左へ銘文を読むスタイルとなります。灯台では、いつ建築工事が完了したのかという竣工年月日よりも、いつから点灯して運用を開始したのかが重要になってきます。初点プレートの素材も、鉄製(銅製?)を多く見かけるのに対して、佐田岬灯台は花崗岩の銘板をはめ込んでいます。実はこれ、日本オリジナルのスタイルで、外国の灯台では見かけることはないようです。フランス人技師フロランが手がけたわが国最初の洋式灯台〝観音埼(かんのんさき)灯台〟〈東京湾三浦半島、1869年2月11日初点灯〉も、ブラントンが手がけた明治初年に手がけた洋式灯台にも、この初点プレートは設置され、日本の習慣に合わせてそうした形態をとったのかも知れません。

また、岬を表す地名には「鼻」や「崎」がありますが、岬に立地する灯台の名称には土へんの「埼」を用いる場合も多く、発音も濁らず〝さき〟と称しますので注意が必要です。地形図をもとにした観光マップで誤表記をよく見かけますが、灯台は海図から見た視点が大切です。航海者になった気持ちで、海から見た姿こそ美しく見えます。灯台はロケーションも大切で、佐田岬灯台は、沖の豊後水道(速吸瀬戸)を航行する九四国道フェリーや宇和島運輸フェリー・九四オレンジフェリーなどからも肉眼で確認することができます。背後の椿山展望台(豊予要塞遺構)から眺める景観の美しさは、〝絵になるような絶景〟として灯台識者らも認めるところです。

室ノ鼻灯台からは、リアス海岸の湾内に浮かぶ養殖いかだや太陽光が反射した宇和海の水面を望むことができました。

①宇和海ですれ違うフェリーのシルエット

[宇和海ですれ違うフェリーのシルエット]

また、一見不釣り合いに見える室鼻公園内のプール…、これは海水浴に不向きな緑泥片岩の海岸が要因となっているようです。

①室鼻公園と緑泥片岩の海岸

[室鼻公園と緑泥片岩の海岸]

その日の昼食場所にもなった三机(みつくえ)湾の須賀公園にも、海のそばにプールがありました。白砂のビーチが当たり前の筆者は違和感を覚えつつも、そこならではの珍景として小さな感動がありました。

 つづいて、明治・大正期の精錬所跡そばに建つ女子鼻(めっこはな)灯台を目指しますが、ハイエースはリアス海岸の狭い丘陵道路で道を誤りつつ、最寄りの駐車場へたどり着くことになるのでした。 

  【明日に続きます。】

 

イベント名佐田岬半島をゆく①
  • 「佐田岬半島をゆく①」
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