佐田岬半島をゆく④

2023-5-21
海と日本PROJECT in えひめ

伊方町役場本庁から室ノ鼻灯台へ向かう途中、湾岸道路沿いで気になる石像が目に飛び込んできました。筆者の目には、日露戦争当時の兵士をかたどった石像に映ったので、これは珍しいと思い、後日改めて訪ねてみることにしました。

 花崗岩の台石正面には〝故 陸軍歩兵 伍長 元岡荒一之碑〟の銘が刻まれ、側面・背面には故人・元岡荒一の略歴が漢文で刻まれています。

④故_元岡伍長の石像①④故_元岡伍長の石像②

[故_元岡伍長の石像]

この銘文は「ふれあい いかた」(伊方町教育委員会発行)の平成4(1992)年2月号にも掲載され、故人の元岡伍長は同町川永田(かわながた)出身で、日露戦争当時は歩兵第22連隊に所属して清国遼東半島へ出征しました。明治38(1904)年1月1日の旅順要塞陥落後の3月6日、日露戦争最後の会戦とされる奉天会戦(現、中国遼寧省瀋陽)に転戦中のところ、救兵台南方高地で亡くなっています。享年26歳という若さで、この碑は遺族の元岡初治が明治43(1910)年に建立したようです(彫刻師は萩原助二郎)。『伊方町誌』(伊方町、昭和62年発行)によると、翌3月7日には同郷川永田の陸軍歩兵一等卒・岡本万右衛門も戦死し、同戦地での激戦が目に浮かぶようです。川永田地区では、明治37~38年の日露戦争で彼らを含む5名が亡くなっているのです。

 歩兵第22連隊は、愛媛県で編成された日本陸軍歩兵連隊で、四国全域を管区とする第11師団(善通寺)に所属し、松山堀之内に兵営がありました。同連隊は、旅順攻囲戦では多大の犠牲を払い、その奮闘は実際に従軍して負傷した桜井忠温(松山出身)の戦記『肉弾』が示すところです。日露戦争だけで、同連隊は653名の戦死者・389名の負傷者・671名の行方不明者の損害があったようで、行方不明者の中には砲火・銃火によって死者の見分けのつかない人も多かったものと思われます。壮絶な最期を遂げた荒一には、武人勲章の金鵄(きんし)勲章が授与されています。

戦没兵士の慰霊碑は時折見かけることもありますが、個人の容姿をかたどった慰霊像の建立は珍しいのではないでしょうか。これが銅像であれば、太平洋戦争の金属供出の際、尋常小学校に設置されていた多くの二宮金次郎像同様に失われていたことでしょう。伊方町では、日露戦争で戦没した多くの兵士にあって、なぜ元岡伍長だけが石像となったのでしょう。伍長は下士官に分類されますので、決して高い階級ではなく、遺族の強い思いを感じずにはいられません。今日こそ、気づかずにそばを通り過ぎていく人も多いように思いますが、かつてはお国のために死んでいった英雄として語り継がれていたはずです。

 一方、佐田岬灯台モニターツアーでは、三机(みつくえ)湾の「須賀(すか)の森」〈須賀公園〉で昼食をとることになりましたが、九軍神(きゅうぐんしん)慰霊碑に高い関心を示す参加者はわずかでした。

④九軍神慰霊碑

[九軍神慰霊碑]

九軍神とは、太平洋戦争が始まった昭和16(1941)年12月8日、航空兵力とは別に5隻の特殊潜航艇(甲標的甲型、全長約24m、1隻2人乗り)でハワイ真珠湾突入をはかった岩佐直治大尉(当時26歳)ら20歳台の戦死者9人のことをさします。彼らは戦死によって二階級特進を果たし(岩佐は中佐に昇進)、東京で合同海軍葬が開かれ、軍神として讃えられました。しかし、1人だけ米軍の捕虜となって生き残った酒巻和男少尉は、生きて敵の辱めを受けたとして、国民から非難を受けることになります。その彼ら10名が、真珠湾攻撃に先だって訓練を行った場所が三机湾で、定宿としたのが岩宮旅館でした。三机が訓練地に選ばれたのは、陸路や海路からも気づかれにくく、砂嘴(さし)で形成された二重の湾が適地と判断されたようです(砂嘴とは沿岸流により運ばれた漂砂が堆積してできた、鳥の嘴〈クチバシ〉のような地形)。

 ここに慰霊碑が建立されたのは昭和41(1966)年8月のことで、毎年12月8日には地元青年団主催の慰霊祭が執り行われています(公園内のウバメガシ樹林が神域のような雰囲気を醸し出す)。

④須賀公園のウバメガシ樹林

[須賀公園のウバメガシ樹林]

また遺族だけでなく、戦争史の愛好家らも岩宮旅館に宿泊して、この慰霊碑に参列されるとか。現在、旅館の建物は新しく建て替わってはいますが、玄関口は「九軍神資料館」となっていて、筆者のような歴史愛好家を今も温かく迎え入れてくれます。

④いわみや旅館の九軍神資料館

[いわみや旅館の九軍神資料館]

モニターツアーの際に資料館を拝見させていただいたところ、女将から「慰霊碑そばの九軍神の設置パネルが2021年12月にリニューアルされ、酒巻さんも仲間の9人と一緒に霊を弔うようになった」とのことでした(戦後、酒巻氏はトヨタ自動車の企業戦士として日本の戦後復興に身を捧げ、後年は同社ブラジル現地法人の社長を務めた)。真珠湾攻撃を前にした11月某日、10人は艦上で記念撮影を行っていますが、九軍神を紹介する際は、意図的にこの写真から酒巻少尉だけを消すこともあったようです(5隻のうち1隻は戦後に引き揚げられ、江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館前に展示されている)。

④10名の真珠湾特別攻撃隊員

[0名の真珠湾特別攻撃隊員]

時代が変わり、敗戦から78年目を迎えようとする今、10人を分け隔てなく慰霊することに平和のありがたさを感じました。しかし一方で、世界に目を向ければロシアとウクライナとの戦争が日々のニュースで伝えられ、その影響は私たちの生活にも及んでおります。また、隣国との軍事的緊張感も年々増してきているように思います。令和を生きる私たちは、佐田岬半島に点在する近代戦争遺跡や亡くなった兵士の慰霊碑から、学ぶべきことが多々あるように感じました。

 

【おわり】

 

大成 経凡

イベント名佐田岬半島をゆく④
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